応袪伝

原文はhttp://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7070より。

  應袪,字思遠,汝南南頓人,魏侍中璩之孫也。袪幼孤,為祖母所養。年十余歲,祖母又終,居喪毀頓,杖而後起,遂以孝聞。家富於財,年又稚弱,乃請族人共居,委以資產,情若至親,世以此異焉。弱冠知名,性質素弘雅,物雖犯而弗之校,以學藝文章稱。司徒何劭見之曰:「君子哉若人!」

応袪は、字(あざな)を思遠といい、汝南の南頓の人であり、曹魏侍中応璩の孫である。応袪は幼くして孤児となり、祖母により養われた。年が十余歲になると、祖母もまた亡くなり、居喪毀頓、杖而後起、遂以孝聞となった。家富於財、年又稚弱、乃請族人共居、委以資産、情若至親、世以此異焉。弱冠知名、性質素弘雅、物雖犯而弗之校、以學藝文章稱。司徒の何劭が彼を見てこう言った:「君子哉若人!」

  初辟公府,為太子舍人。趙王倫以為征東長史。倫誅,坐免。成都王穎辟為掾。時驃騎從事中郎諸葛玫委長沙王乂奔鄴,盛稱乂之非。玫浮躁有才辯,臨漳人士無不詣之。袪與玫有舊,歎曰:「諸葛成林,何與樂毅之相詭乎!」卒不見之。玫聞甚愧。鎮南大將軍劉弘,袪之祖舅也,請為長史,謂之曰:「君器識弘深,後當代老子荊南矣。」仍委以軍政。弘著績漢南,袪之力也。遷南平太守。

初め、辟公府となり、太子舍人となった。趙王の司馬倫により征東長史に任命された。司馬倫が誅殺されると、連坐を免れた。成都王の司馬穎に辟されて掾になった。時に、驃騎従事中郎の諸葛玫が長沙王の司馬乂に委されて奔鄴し、盛稱乂之非であった。諸葛玫は浮躁有才辯、臨漳人士無不詣之。応袪と諸葛玫は舊が有り、歎いてこう言った:「諸葛成林,何與樂毅之相詭乎!」卒不見之。諸葛玫は聞くと甚だ愧く思った。鎮南大将軍の劉弘は、応袪の祖舅であったが、請うて長史とし、謂之してこう言った:「君器識弘深,後當代老子荊南矣。」仍委以軍政となった。劉弘は漢南で著しい治績を挙げたが、応袪の力が大きかった。南平太守に転任となった。

  王澄為荊州,假袪督南平、天門、武陵三郡軍事。及洛陽傾覆,袪攘袂流涕,勸澄赴援。澄使袪為檄,袪下筆便成,辭義壯烈,見者慷慨,然竟不能從也。天門、武陵溪蠻並反,袪討降之。時政令不一,諸蠻怨望,並謀背叛。袪召蠻酋,破銅券與盟,由是懷袪,數郡無虞。其後天下大亂,袪境獨全。百姓歌之曰:「亂離既普,殆為灰朽。僥倖之運,褚茲應後。歲寒不凋,孤境獨守。拯我塗炭,惠隆丘阜。潤同江海,恩猶父母。」鎮南將軍山簡複假袪督五郡軍事。會蜀賊杜疇作亂,來攻袪郡,力戰摧之。尋與陶侃破杜弢于長沙,賊中金寶溢目,袪一無所取,唯收圖書,莫不歎之。元帝假袪建武將軍,王敦又上袪監巴東五郡軍事,賜爵潁陽鄉侯。陳人王沖擁眾荊州,素服袪名,迎為刺史。袪以沖等無褚,棄還南平,沖亦不怨。其得人情如此。遷益州刺史,領巴東監軍。袪之出郡也,士庶攀車號泣,若戀所生。

王澄は荊州で、仮に応袪を督南平、天門、武陵三郡軍事とした。洛陽が傾覆するに及んで、応袪は攘袂流涕し、王澄に救援に赴くことを勧めた。王澄は応袪に檄を書かせたところ、応袪の下筆は便成で、辭義は壯烈で、見者は慷慨し、然竟不能従也とした。天門、武陵の溪蛮が並んで反乱を起こし、応袪は之を討ち降した。時政令不一で、諸蛮は怨望しており、並んで謀って背叛した。応袪は蛮の酋を招いて、破銅券與盟したところ、これにより応袪は懐かれ、数郡は無虞となった。その後、天下は大亂し、応袪は境で獨全した。百姓が歌ってこう言った:「亂離既普,殆為灰朽。僥倖之運,褚茲應後。歲寒不凋,孤境獨守。拯我塗炭,惠隆丘阜。潤同江海,恩猶父母。」鎮南将軍の山簡は再び仮に応袪を督五郡軍事とした。蜀賊の杜疇の作亂が起き、応袪の郡まで来攻してくると、力戦摧之した。尋と陶侃は杜弢を長沙で破り、賊中金寶溢目であったが、応袪は一無所取で、唯收圖書し、莫不歎之という状況であった。東晋の元帝は仮に応袪を建武将軍とし、王敦は又、上して応袪を監巴東五郡軍事、賜爵潁陽鄉侯とした。陳人の王沖荊州で軍勢を擁していたが、応袪の名に素服し、迎して刺史とした。応袪は王沖等を無褚とし、棄還南平したが、王沖は怨まなかった。その得人情はこのようであった。益州刺史に転任し、領巴東監軍となった。応袪が出郡すると、士庶攀車號泣し、若戀所生した。

  俄拜後軍將軍。袪上疏陳便宜,曰:「先王設官,使君有常尊,臣有定卑,上無苟且之志,下無覬覦之心。下至亡奏,罷侯置守,本替末陵,綱紀廢絕。漢興,雖未能興復舊典,猶雜建侯守,故能享年享世,殆參古跡。今大荒之後,制度改創,宜因斯會,厘正憲則,先舉盛紱元功以為封首,則聖世之化比靈斯唐虞矣。」又曰:「性相近,習相遠,訓導之風,宜慎所好。魏正始之間,蔚為文林。元康以來,賤經尚道,以玄虛宏放為夷達,以儒術清儉為鄙俗。永嘉之弊,未必不由此也。今雖有儒官,教養未備,非所以長育人才,納之軌物也。宜修辟雍,崇明教義,先令國子受訓,然後皇儲親臨釋奠,則普天尚紱,率土知方矣。」元帝雅重其才,深納之。

俄拜して後軍将軍となった。応袪は上疏して陳便宜し、こう言った:「先王設官,使君有常尊,臣有定卑,上無苟且之志,下無覬覦之心。下至亡奏,罷侯置守,本替末陵,綱紀廢絕。漢興,雖未能興復舊典,猶雜建侯守,故能享年享世,殆參古跡。今大荒之後,制度改創,宜因斯會,厘正憲則,先舉盛紱元功以為封首,則聖世之化比靈斯唐虞矣。」また、こうも言った:「性相近,習相遠,訓導之風,宜慎所好。魏正始之間,蔚為文林。元康以來,賤經尚道,以玄虛宏放為夷達,以儒術清儉為鄙俗。永嘉之弊,未必不由此也。今雖有儒官,教養未備,非所以長育人才,納之軌物也。宜修辟雍,崇明教義,先令國子受訓,然後皇儲親臨釋奠,則普天尚紱,率土知方矣。」元帝は雅重其才し、深納之した。

  頃之,出補吳國內史,以公事免。鎮北將軍劉隗出鎮,以袪為軍司。加散騎常侍,累遷光祿勳。袪以王敦專制自樹,故優遊諷詠,無所標明。及敦作逆,明帝問袪計將安出。袪窅然慷慨曰:「陛下宜奮赫斯之威,臣等當得負戈前驅,庶憑宗廟之靈,有征無戰。如其不然,王室必危。」帝以袪為都督前鋒軍事、護軍將軍、假節,都督硃雀橋南。賊從竹格渡江,袪與建威將軍趙胤等擊敗之,斬賊率杜發,梟首數千級。賊平,封觀陽縣侯,食邑一千六百戶,賜絹五千匹。上疏讓曰:「臣聞開國承家,光啟土宇,唯令紱元功乃宜封錫。臣雖忝當一隊,策無微略,勞不汗馬。猥以疏賤,倫亞親密,暫廁被練,列勤司勳。乞回謬恩,聽其所守。」不許。

頃之、出補して呉国内史となったが、公事で免じられた。鎮北将軍の劉隗が出鎮し、応袪は軍司(軍師)となった。散騎常侍を加官され、累遷して光禄勲となった。応袪は王敦の専制を理由に自樹し、、故優遊諷詠で、無所標明であった。王敦が作逆するに及んで、明帝司馬紹)は応袪に計将安出について質問した。応袪は窅然慷慨してこう言った:「陛下宜奮赫斯之威,臣等當得負戈前驅,庶憑宗廟之靈,有征無戰。如其不然,王室必危。」明帝は応袪を都督前鋒軍事、護軍将軍、仮節とし、都督朱雀橋南させた。賊が従竹格して渡江すると、応袪と建威将軍の趙胤等は迎撃して之を破り、斬賊率杜發、梟首は数千級に上った。賊が平定されると、觀陽県令侯となり、食邑一千六百戸と、絹五千匹を与えられた。上疏して譲り下ってこう言った:「臣聞開國承家,光啟土宇,唯令紱元功乃宜封錫。臣雖忝當一隊,策無微略,勞不汗馬。猥以疏賤,倫亞親密,暫廁被練,列勤司勳。乞回謬恩,聽其所守。」不許。

  遷使持節、都督江州諸軍事、平南將軍、江州刺史。袪將行,上疏曰:

  遷って使持節、都督江州諸軍事、平南将軍、江州刺史となった。応袪は将に行こうとするとき、上疏してこう言った:

  夫欲用天下之智力者,莫若使天下信之也。商鞅移木,豈禮也哉?有由而然。自經荒弊,綱紀頹陵,清直之風既澆,糟秕之俗猶在,誠宜濯以滄浪之流,漉以吞舟之網,則幽顯明別,于變時雍矣。弘濟茲務,在乎官人。今南北雜錯,屬托者無保負之累,而輕舉所知,此博采所以未精,職理所以多闕。今凡有所用,宜隨其能否而與舉主同乎褒貶,則人有慎舉之恭,官無廢職之吝。昔冀缺有功,胥臣蒙先茅之賞;子玉敗軍,子文受蔿賈之責。古既有之,今亦宜然。漢朝使刺史行部,乘傳奏事,猶恐不足以辨彰幽明,弘宣政道,故複有繡衣直指。今之艱弊,過於往昔,宜分遣黃、散若中書郎等循行天下,觀采得失,舉善彈違,斷截苟且,則入不敢為非矣。漢宣帝時,二千石有居職修明者,則入為公卿;其不稱職免官者,皆還為平人。懲勸必行,故曆世長久。中間以來,遷不足競,免不足懼。或有進而失意,退而得分。蒞官雖美,當以素論降替;在職實劣,直以舊望登敘。校游談為多少,不以實事為先後。以此責成,臣未見其兆也。今宜峻左降舊制,可二千石免官,三年乃得敘用,長史六年,戶口折半,道裏倍之。此法必明,便天下知官難得而易失,必人慎其職,朝無惰官矣。都督可課佃二十頃,州十頃,郡五頃,縣三頃。皆取文武吏醫蔔,不得撓亂百姓。三台九府,中外諸軍,有可減損,皆令附農。市息末伎,道無遊人,不過一熟,豐穰可必。然後重居職之俸,使祿足以代耕。頃大事之後,遐邇皆想宏略,而寂然未副,宜早振綱領,肅起群望。

  時王敦新平,人情未安,袪撫而懷之,莫不得其歡心,百姓褚之。

  時に王敦の新平の頃で、人情は未安で、応袪は撫而懐之,莫不得其歓心、百姓は之を頼りにした。

  疾篤,與陶侃書曰:「每憶密計,自沔入湘,頡頏繾綣,齊好斷金。子南我東,忽然一紀,其間事故,何所不有。足下建功嶠南,旋鎮舊楚。吾承乏幸會,來忝此州,圖與足下進共竭節本朝,報恩幼主,退以申尋平生,纏綿舊好。豈悟時不我與,長即幽冥,永言莫從,能不慨悵!今神州未夷,四方多難,足下年紱並隆,功名俱盛,宜務建洪範,雖休勿休,至公至平,至謙至順,即自天祐之,吉無不利。人之將死,其言也善,足下察吾此誠。」以鹹和六年卒,時年五十三。冊贈鎮南大將軍、儀同三司,諡曰烈,祠乙太牢。子玄嗣,位至散騎侍郎。玄弟誕,有器幹,曆六郡太守、龍驤將軍,追贈冀州刺史。

  疾が篤く、陶侃に書を与えてこう言った:「每憶密計,自沔入湘,頡頏繾綣,齊好斷金。子南我東,忽然一紀,其間事故,何所不有。足下建功嶠南,旋鎮舊楚。吾承乏幸會,來忝此州,圖與足下進共竭節本朝,報恩幼主,退以申尋平生,纏綿舊好。豈悟時不我與,長即幽冥,永言莫從,能不慨悵!今神州未夷,四方多難,足下年紱並隆,功名俱盛,宜務建洪範,雖休勿休,至公至平,至謙至順,即自天祐之,吉無不利。人之將死,其言也善,足下察吾此誠。」鹹和六年に死去、その時の年は五十三であった。冊贈して鎮南大将軍、儀同三司とし、諡号を与え烈とした,祠乙太牢。子の応玄が嗣ぎ、位は散騎侍郎までなった。応玄の弟の応誕は、有器で幹があり、曆六郡太守、龍驤将軍となり、冀州刺史を追贈された。

  初,京兆韋泓喪亂之際,親屬遇饑疫並盡,客遊洛陽,素聞袪名,遂依託之。袪與分甘共苦,情若弟兄。遂隨從積年,為營伉儷,置居宅,並薦之於元帝曰:「自遭喪亂,人士易操,至乃任運固窮,耿介守節者鮮矣。伏見議郎韋泓,年三十八,字元量,執心清沖,才識備濟,躬耕隴畝,不煩人役,靜默居常,不豫政事。昔年流移,來在袪境,經寇喪資,一身特立,短褐不掩形,菜蔬不充朝,而抗志彌窅,不遊非類。顏回稱不改其樂,泓有其分。明公輔亮皇室,恢維宇宙,四門開闢,英彥鳧藻,收春華於京輦,采秋實於岩藪。而泓抱璞荊山,未剖和璧。若蒙銓召,付以列曹,必能協隆鼎味,緝熙庶績者也。」帝即辟之。自後位至少府卿。既受袪生成之惠,袪卒,遂制朋友之服,哭止宿草,追趙氏祀程嬰、杵臼之義,祭袪終身。