毛宝伝

原文はhttp://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7081より。

  毛寶,字碩真,滎陽陽武人也。王敦以為臨湘令。敦卒,為溫嶠平南參軍。蘇峻作逆,嶠將赴難,而征西將軍陶侃懷疑不從。嶠屢說不能回,更遣使順侃意曰:「仁公且守,僕宜先下。」遣信已二日,會寶別使還,聞之,說嶠曰:「凡舉大事,當與天下共同,眾克在和,不聞有異。假令可疑,猶當外示不覺,況自作疑耶!便宜急追信,改舊書,說必應俱征。若不及前信,宜更遣使。」嶠意悟,即追信改書,侃果共征峻。寶領千人為嶠前鋒,俱次茄子浦。

毛宝は、字を碩真といい、滎陽の陽武の人である。王敦により臨湘の令に任命された。王敦が死去すると、温嶠により平南参軍に取り立てられた。蘇峻が作逆すると、温嶠の将は赴難したが、征西将軍の陶侃は懐疑し従わなかった。温嶠は屢說不能回、更遣使して陶侃を味方につけるためこう言わせた:「仁公且守,僕宜先下。」遣信已二日、毛宝は別使が還ったのと会見し、この話を聞いたが、温嶠はこう言った:「凡舉大事,當與天下共同,眾克在和,不聞有異。假令可疑,猶當外示不覺,況自作疑耶!便宜急追信,改舊書,說必應俱征。若不及前信,宜更遣使。」温嶠は意に悟ることがあり、即追して信改書させ、陶侃は果して共に蘇峻征伐に参加した。毛宝は領千人で温嶠の前鋒となり、俱次茄子浦。

  初,嶠以南軍習水,峻軍便步,欲以所長制之,宜令三軍,有上岸者死。時蘇峻送米萬斛饋祖約、約遣司馬桓撫等迎之。寶告其眾曰:「兵法,軍令有所不從,豈可不上岸邪!」乃設變力戰,悉獲其米,虜殺萬計,約用大饑。嶠嘉其勳,上為廬江太守。

初、温嶠以は南軍習水し、蘇峻の軍便步であり、欲以所長制之、宜令三軍、有上岸者死。時に蘇峻は米万斛饋を祖約に送る約束をしており、祖約は司馬の桓撫等に之を迎えさせた。毛宝はその軍勢に告げてこう言った:「兵法,軍令有所不從,豈可不上岸邪!」乃設變力戰し、悉く兵糧を獲り、虜殺は万に上り、祖約は大饑した。温嶠はその働きを嘉し、廬江太守に任じた。

  約遣祖煥、桓撫等欲襲湓口,陶侃將自擊之,寶曰:「義軍恃公,公不可動,寶請討之。」侃顧謂坐客曰:「此年少言可用也。」乃使寶行。先是,桓宣背約,南屯馬頭山,為煥、撫所攻,求救於寶。寶眾以宣本是約黨,疑之。宣遣子戎重請,寶即隨戎赴之。未至,而賊已與宣戰。寶軍懸兵少,器杖濫惡,大為煥、撫所破。寶中箭,貫髀徹鞍,使人蹋鞍拔箭,血流滿靴,夜奔船所百餘裏,望星而行。到,先哭戰亡將士,洗瘡訖,夜還救宣。寶至宣營,而煥、撫亦退。寶進攻祖約,軍次東關,破合肥,尋召歸石頭。陶侃、溫嶠未能破賊,侃欲率眾南還。寶謂嶠曰:「下官能留之。」乃往說侃曰:「公本應領蕪湖,為南北勢援,前既已下,勢不可還。且軍政有進無退,非直整齊三軍,示眾必死而已,亦謂退無所據,終至滅亡。往者杜弢非不強盛,公竟滅之,何至於峻獨不可破邪!賊亦畏死,非皆勇健,公可試與寶兵,使上岸斷賊資糧,出其不意,使賊困蹙。若寶不立效,然後公去,人心不恨。」侃然之,加寶督護。寶燒峻句容、湖孰積聚,峻頗乏食,侃遂留不去。

祖約は祖煥、桓撫等を派遣し、湓口を襲撃しようとしたが、陶侃の将は自ら迎撃した。毛宝はこう言った:「義軍恃公,公不可動,寶請討之。」陶侃は坐客の方を振り返ってこう言った:「此年少言可用也。」毛宝は援軍に派遣された。先是,桓宣が背約し、南屯馬頭山しており、祖煥、桓撫の攻撃を受けていたため、毛宝に救援を依頼してきた。毛宝の軍は桓宣の本是は祖約であったため、疑った。桓宣は子の桓戎を派遣し重請したことろ、毛宝は即ちに桓戎を伴って救援した。毛宝が到着しないうちに、賊と桓宣が戦闘となった。毛宝の軍は懸兵少で、器杖濫惡であり、祖煥、桓撫に大敗した。毛宝は中箭、貫髀徹鞍となり、使人蹋鞍拔箭したところ、血流滿靴であり、夜奔船所百餘裏、望星而行。到ると、先哭して戦没した将士を悼み、洗瘡訖し、夜には再び桓宣を救援した。毛宝は宣營に至ると、祖煥、桓撫は撤退した。毛宝は進んで祖約を攻撃し、軍は東関を通り、合肥を破って、尋召歸して石頭にまで達した。陶侃、温嶠は未能破賊であったが、陶侃は軍勢を南に戻そうとした。毛宝は温嶠に要請してこう言った:「下官能留之。」乃往說して陶侃に対してこう言った:「公本應領蕪湖,為南北勢援,前既已下,勢不可還。且軍政有進無退,非直整齊三軍,示眾必死而已,亦謂退無所據,終至滅亡。往者杜弢非不強盛,公竟滅之,何至於峻獨不可破邪!賊亦畏死,非皆勇健,公可試與寶兵,使上岸斷賊資糧,出其不意,使賊困蹙。若寶不立效,然後公去,人心不恨。」陶侃は之を然とし、毛宝に督護を加官した。毛宝は燒峻句容、湖孰積聚し、蘇峻は頗乏食となり、陶侃は遂に留不去であった。

  峻既死,匡術以苑城降。侃使寶守南城,訒嶽守西城。賊遣韓晃攻之,寶登城射殺數十人。晃問寶曰:「君是毛廬江邪?」寶曰:「是。」晃曰:「君名壯勇,何不出鬥!」寶曰:「君若健將,何不入鬥!」晃笑而退。賊平,封州陵縣開國侯,千六百戶。

蘇峻が戦死すると、匡術以苑城降した。陶侃は毛宝を派遣し、南城を守備させ、訒嶽には西城を守備させた。賊は韓晃を派遣し攻撃させたが、毛宝は城に上って射撃して数十人を殺した。韓晃は毛宝にこう言った:「君是毛廬江邪?」毛宝はこう言った:「是。」韓晃はこう言った:「君名壯勇,何不出鬥!」毛宝はこう言った:「君若健將,何不入鬥!」韓晃は笑って撤退した。賊が平定されると、封ぜられて州陵県開国侯となり、千六百戶となった。

  庾亮西鎮,請為輔國將軍、江夏相、督隨義陽二郡,鎮上明。又進南中郎。隨亮討郭默。默平,與亮司馬王愆期救桓宣于章山,擊賊將石遇,破之,進征虜將軍。亮謀北伐,上疏解豫州,請以授寶。於是詔以寶監揚州之江西諸軍事、豫州刺史,將軍如故,與西陽太守樊峻以萬人守邾城。石季龍惡之,乃遣其子鑒與其將夔安、李菟等五萬人來寇,張狢渡二萬騎攻邾城。寶求救於亮,亮以城固,不時遣軍,城遂陷。寶、峻等率左右突圍出,赴江死者六千人,寶亦溺死。亮哭之慟,因發疾,遂薨。

庾亮が西鎮すると、請われて輔国将軍、江夏相、督隨義陽二郡となり、上明に鎮守した。又進んで、南中郎となった。庾亮に随って郭默を討伐した。郭默が平定されると、庾亮の司馬の王愆期と共に桓宣を章山で救援し、賊将の石遇を撃破して、征虜将軍に昇進した。庾亮が北伐を計画すると、上疏して解豫州し、請して毛宝に与えた。於是で詔が出て、毛宝は監揚州之江西諸軍事、豫州刺史となり、将軍職はもとのままとされた。西陽太守の樊峻と共に万人で邾城を守備した。石超(石季龍)はこれを悪み、子の石鑒とその將の夔安、李菟等五万人で侵略し、張狢渡二万騎が邾城に攻め寄せた。毛宝は庾亮に援軍を求めたが、庾亮は城を固めるのみで、不時遣軍であり、城は遂に陥落してしまった。毛宝、樊峻等は左右を率いて包囲網を突破しようとしたが、江で死者は六千人となり、毛宝も溺死した。庾亮は哭之慟し、因發疾して、遂に死去した。

  詔曰:「寶之傾敗,宜在貶裁。然蘇峻之難,致力王室。今咎其過,故不加贈,祭之可也。」其後公卿言寶有重勳,加死王事,不宜奪爵。升平三年,乃下詔複本封。

詔が出てこう言った「寶之傾敗,宜在貶裁。然蘇峻之難,致力王室。今咎其過,故不加贈,祭之可也。」その後、公卿は毛宝に重勲があることに言及し、加死王事をし、不宜奪爵した。升平三年、乃って詔が下され、複び本封した。

  初,寶在武昌,軍人有于市買得一白龜,長四五寸,養之漸大,放諸江中。邾城之敗,養龜人被鎧持刀,自投于水中,如覺墮一石上,視之,乃先所養白龜,長五六尺,送至東岸,遂得免焉。

初め、毛宝が武昌に居た頃、軍人が市場で一匹の白亀を買ってきて、その長さは四、五寸もあり、養之漸大であったため、諸江中に放した。邾城の敗北のとき、亀を養ってた人が被鎧持刀して、自ら水中に投げ入れると、如覺墮一石上し、之を視ると、その先に昔養っていた白亀が現れ、その長さは五、六尺となっており、東岸にたどり着くことができ、遂に得免した。

  寶二子:穆之、安之。

毛宝は2人の子がいた。毛穆之と毛安之である。