霊帝紀

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孝靈皇帝諱宏,肅宗玄孫也。曾祖河間孝王開,祖淑,父萇。世封解瀆亭侯,帝襲侯爵。母董夫人。桓帝崩,無子,皇太后與父城門校尉竇武定策禁中,使守光祿大夫劉儵持節,將左右羽林至河間奉迎。

霊帝は諱を劉宏と言い、肅宗(章帝)の玄孫である。曾祖父は河間孝王の劉開、祖父は劉淑、父は劉萇である。世封していた爵位は解瀆亭侯であり、劉宏も当初は侯爵であった。母は董夫人である。桓帝崩御すると、子が無かったため、皇太后の竇氏とその父の城門校尉の竇武は禁中において定策し、守光禄大夫の劉儵に節を持たせて使いに出し、、左右羽林の将を河間にまで出向かせて劉宏を奉迎させた。

建寧元年春正月壬午,城門校尉竇武為大將軍。己亥,帝到夏門亭,使竇武持節,以王青蓋車迎入殿中。庚子,即皇帝位,年十二。改元建寧。以前太尉陳蕃為太傅,與竇武及司徒胡廣參錄尚書事。使護羌校尉段颎討先零羌。二月辛酉,葬孝桓皇帝於宣陵,廟曰威宗。庚午,謁高廟。辛未,謁世祖廟。大赦天下。賜民爵及帛各有差。段颎大破先零羌於逢義山。閏月甲午,追尊皇祖為孝元皇,夫人夏氏為孝元皇后,考為孝仁皇,夫人董氏為慎園貴人。夏四月戊辰,大尉周景薨。司空宣酆免,長樂衛尉王暢為司空。五月丁未朔,日有食之。詔公卿以下各上封事,及郡國守、相舉有道之士各一人;又故刺史、二千石清高有遺惠、為眾所歸者,皆詣公車。太中大夫劉矩為太尉。六月,京師雨水。秋七月,破羌將軍段颎復破先零羌於芤陽。八月,司空王暢免,宗正劉寵為司空。九月辛亥,中常侍曹節矯詔誅太傅陳蕃、大將軍竇武及尚書令尹稃、侍中劉瑜、屯騎校尉馮述,皆夷其族。皇太后遷於南宮。司徒胡廣為太傅,隸尚書事。司空劉寵為司徒,大鴻臚許栩為司空。冬十月甲辰晦,日有食之。令天下繫囚罪未決入縑贖,各有差。十一月,太尉劉矩免,太僕沛國聞人襲為太尉。十二月,鮮卑及濊貊寇幽、幷二州。

建寧元年春正月、城門校尉の竇武が大将軍となった。しばらくして、劉宏は夏門亭に到着し、竇武に持節させて、王の青蓋車に迎えられ殿中に入った。しばらくして、劉宏は皇帝に即位した。12歳であった。改元して建寧元号とした。前の太尉の陳蕃を太傅にし、竇武と司徒の胡広を録尚書事とした。

護羌校尉の段颎に先零羌を討伐させた。2月、桓帝の遺体を宣陵に葬り、廟号を威宗とした。

しばらくして、霊帝は高廟に謁した。しばらくして、霊帝は世祖廟に謁した。大赦を天下に実行した。賜民爵及帛各有差であった。段颎は先零羌を逢義山で大いに破った。

閏月、追尊して皇祖を孝元皇に、その夫人の夏氏を孝元皇后に、考を孝仁皇に、夫人の董氏を慎園貴人とした。夏4月、大尉の周景が死去した。司空の宣酆が免職となり、長楽衛尉の王暢が司空となった。

5月、日食が起きた。詔公卿以下各上封事,及郡國守、相舉有道之士各一人;又故刺史、二千石清高有遺惠、為眾所歸者,皆詣公車。太中大夫の劉矩が太尉となった。

6月、洛陽で雨水があった。秋7月、破羌將軍の段颎が先零羌を芤陽で再び破った。8月、司空の王暢が免職となり、宗正の劉寵が司空となった。

9月、中常侍曹節が矯詔して太傅の陳蕃、大将軍の竇武、尚書令の尹稃、侍中の劉瑜、屯騎校尉の馮述を誅殺し、皆夷其族した。皇太后を南宮に幽閉した。司徒の胡広が太傅・隸尚書事となった。司空の劉寵が司徒に、大鴻臚の許栩が司空となった。

冬10月、日食が起きた。令して天下繫囚罪未決入縑贖させたが、各有差であった。11月、太尉の劉矩が免職となり、太僕の沛国の聞人襲が太尉となった。12月、鮮卑濊貊が幽、幷二州に侵攻した。

二年春正月丁丑,大赦天下。三月乙巳,尊慎園董貴人為孝仁皇后。夏四月癸巳,大風,雨雹。詔公卿以下各上封事。五月,大尉聞人襲罷,司空許栩免。六月,司徒劉寵為太尉,太常許訓為司徒,太僕長沙劉囂為司空。秋七月,破羌將軍段颎大破先零羌於射虎塞外谷。東羌悉平。九月,江夏蠻叛,州郡討平之。丹陽山越賊圍太守陳夤,夤擊破之。冬十月丁亥,中常侍侯覽諷有司奏前司空虞放、太僕杜密、長樂少府李膺司隸校尉朱㝢、潁川太守巴肅、沛相荀碰、河內太守魏朗、山陽太守翟超皆為鉤黨,下獄,死者百餘人,妻子徙邊,諸附從者錮及五屬。制詔州郡大舉鉤黨,於是天下豪桀及儒學行義者,一切結為黨人。戊戌晦,日有食之。十一月,太尉劉寵免,太僕郭禧為太尉。鮮卑寇並州。是歲,長樂太僕曹節為車騎將軍,百餘日罷。

2年春正月、大赦が天下に実行された。3月、慎園董貴人を尊して孝仁皇后とした。夏4月、大風と雨雹が起きた。詔して公卿以下各上封事を行った。

5月、大尉の聞人襲が罷免となり、司空の許栩が免職となった。6月、司徒の劉寵が太尉となり、太常の許訓が司徒となり、太僕の長沙の劉囂が司空となった。秋7月、破羌将軍の段颎が先零羌と射虎塞外谷で戦い、大いに破った。東羌は悉く平定された。

9月、江夏の蛮が叛き、州郡が之を討ち平定した。丹陽の山越賊が太守の陳夤を包囲したが、陳夤は之を擊破した。

冬10月、中常侍侯覧の策謀により、有司によって前司空の虞放、太僕の杜密、長楽少府の李膺司隸校尉の朱㝢、潁川太守の巴肅、沛相の荀碰、河内太守の魏朗、山陽太守の翟超が皆為鉤黨となり、獄に下されて死んだ。死者は百余人となり、妻子は徙邊され、諸附従者も錮及五屬となった。制詔して州郡は大舉鉤黨し、ここにおいて天下豪桀及儒学行義者は、一切結し党人となった。しばらくして、日食が起きた。

11月、太尉の劉寵が免職となり、太僕の郭禧が太尉となった。鮮卑が並州に侵攻した。この年、長楽太僕の曹節が車騎将軍となり、百余日で罷免された。

三年春正月,河內人婦食夫,河南人夫食婦。三月丙寅晦,日有食之。夏四月,太尉郭禧罷,太中大夫聞人襲為太尉。秋七月,司空劉囂罷。八月,大鴻臚橋玄為司空。九月,執金吾董寵下獄死。冬,濟南賊起,攻東平陵。鬱林烏滸民相率內屬。

3年春正月、河内では人婦食夫となり、河南では人夫食婦という状態であった。3月、日食が起きた。夏4月、太尉の郭禧が罷免となり、太中大夫の聞人襲が太尉となった。秋7月、司空の劉囂が罷免された。

8月、大鴻臚橋玄が司空となった。9月、執金吾の董寵が獄に下され死んだ。冬、済南の賊が蜂起し、東平陵を攻撃した。鬱林烏滸民が相率して内屬した。

四年春正月甲子,帝加元服大赦天下。賜公卿以下各有差,唯黨人不赦。二月癸卯,地震,海水溢,河水清。三月辛酉朔,日有食之。太尉聞人襲免,太僕李咸為太尉。詔公卿至六百石各上封事。大疫,使中謁者巡行致醫藥。司徒許訓免,司空橋玄為司徒。夏四月,太常來豔為司空。五月,河東地裂,雨雹,山水暴出。秋七月,司空來豔免。癸丑,立貴人宋氏為皇后。司徒橋玄免。太常宗俱為司空,前司空許栩為司徒。冬,鮮卑寇並州。

4年春正月、霊帝元服し、大赦を天下に実行した。公卿に施しをし、以下各有差であったが、党人は赦さなかった。2月、地震が起き、海水が溢れ、河水清。3月、日食が起きた。太尉の聞人襲が免職となり、太僕の李咸が太尉となった。詔して、公卿から六百石に至るまでそれぞれが上封事をなすことを命じた。大疫がおき、使中謁者巡行致醫藥させた。司徒の許訓が免職となり、司空の橋玄が司徒となった。夏4月、太常の來豔が司空となった。

5月、河東に地裂が起き、雨雹が発生し、山で水が暴出した。秋7月、司空の來豔が免職となった。しばらくして、貴人の宋氏が皇后となった。司徒の橋玄が免職となった。太常の宗俱が司空となり、前の司空の許栩が司徒となった。この年の冬、鮮卑が並州に侵攻した。

熹平元年春三月壬戌,太傅胡廣薨。夏五月己巳,大赦天下,改元熹平。長樂太僕侯覽有罪,自殺。六月,京師雨水。癸巳,皇太后竇氏崩。秋七月甲寅,葬桓思皇后。宦官諷司隸校尉段颎捕繫太學諸生千餘人。冬十月,渤海王悝被誣謀反,丁亥,悝及妻子皆自殺。十一月,會稽人許生自稱『越王』,寇郡縣,遣楊州刺史臧旻、丹陽太守陳夤討破之。十二月,司徒許栩罷,大鴻臚袁隗為司徒。鮮卑寇並州。是歲,甘陵王恢薨。

熹平元年春3月、太傅の胡広が死去した。夏5月、大赦が天下に実行され、改元して熹平となった。長楽太僕の侯覧が罪を得て自殺した。6月、京師で雨水が起きた。しばらくして、皇太后の竇氏が死去した。

秋7月、桓思皇后を葬った。宦官は諷して司隸校尉の段颎に繫太學諸生千余人を捕らえさせた。冬10月、渤海王の劉悝が謀反の罪で誣告され、しばらくして、劉悝及妻子は全員自殺した。

11月、会稽人の許生が自ら『越王』を称して、郡県に侵攻し、楊州刺史の臧旻、丹陽太守の陳夤が派遣され之を討破した。12月、司徒の許栩が罷免となり、大鴻臚の袁隗が司徒となった。鮮卑が並州に侵攻した。この年、甘陵王の劉恢が死去した。

二年春正月,大疫,使使者巡行致醫藥。丁醜,司空宗俱薨。二月壬午,大赦天下。以光祿勳楊賜為司空。三月,太尉李咸免。

夏五月,以司隸校尉段颎為太尉。沛相師遷坐誣罔國王,下獄死。六月,北海地震。東萊、北海海水溢。秋七月,司空楊賜免,太常潁川唐珍為司空。

冬十二月,日南徼外國重譯貢獻。太尉段颎罷。鮮卑寇幽、幷二州。癸酉晦,日有食之。

2年春正月、大疫が発生し、使使者巡行致醫藥。しばらくして、司空の宗俱が死去した。2月、大赦が天下で実行された。光禄勲の楊賜が司空となった。3月、太尉の李咸が免職となった。

夏5月、司隸校尉の段颎が太尉となった。沛相の師遷が坐誣罔國王で、獄に下されて死んだ。6月、北海で地震が起き、東萊、北海で海水が溢れた。秋7月、司空の楊賜が免職となり、太常の潁川の唐珍が司空となった。

冬12月、日南の徼外国の重譯が貢獻してきた。太尉の段颎が罷免された。鮮卑が幽、幷二州に侵攻した。しばらくして、日食が起きた。

三年春正月,夫餘國遣使貢獻。二月己巳,大赦天下。太常陳耽為太尉。三月,中山王暢薨,無子,國除。夏六月,封河間王利子康為濟南王,奉孝仁皇祀。秋,洛水溢。冬十月癸丑,令天下繫囚罪未決,入縑贖。十一月,楊州刺史臧旻率丹陽太守陳寅,大破許生於會稽,斬之。任城王博薨。十二月,鮮卑寇北地,北地太守夏育追擊破之。鮮卑又寇幷州。司空唐珍罷,永樂少府許訓為司空。

3年春正月、夫餘国が遣使して貢獻してきた。2月、大赦を天下に実行した。

太常の陳耽が太尉となった。3月、中山王の劉暢が死去し、無子で国を除かれた。夏6月、河間王の劉利の子の劉康を済南王とし、孝仁皇の祀を継がせた。秋、洛水が溢れた。

冬10月、令して天下繫囚罪未決を入縑贖した。

11月、楊州刺史の臧旻が丹陽太守の陳寅率いて、会稽で許生を大いに破り、之を斬った。任城王の劉博が死去した。12月、鮮卑が北地に侵攻し、北地太守の夏育が追擊して之を破った。鮮卑は又、幷州に侵攻した。司空の唐珍が罷免され、永楽少府の許訓が司空となった。

四年春三月,詔諸儒正《五經》文字,刻石立于太學門外。封河間王建子佗為任城王。夏四月,郡國七大水。五月丁卯,大赦天下。延陵園灾,遣使者持節告祠延陵。鮮卑寇幽州。六月,弘農、三輔螟。遣守宮令之鹽監,穿渠為民興利。令郡國遇災者,減田租之半;其傷害十四以上,勿收責。冬十月丁巳,令天下繫囚罪未決,入縑贖。拜沖帝母虞美人為憲園貴人,質帝母陳夫人為渤海孝王妃。改平準為中準,使宦者為令,列於內署。自是諸署悉以閹人為丞、令。

4年春3月、詔を出し、儒学者らに命令して『五経』の文字を正させて、石を刻んで太學の門外に建立させた。河間王の劉建の子の劉佗を封じて任城王に任命した。夏4月、郡国の七つで大水があった。5月、大赦を天下に実行した。

延陵園で灾があり、使者に節を持たせて延陵に遣わし、告祠させた。鮮卑が幽州に侵攻した。6月、弘農、三輔で螟が起きた。

守宮令を遣わして之鹽監させ,穿渠為民興利させた。令して郡国の遇災者に対し、減田租之半;其傷害十四以上,勿收責。冬10月、令して天下の繫囚罪未決に対し、入縑贖させた。沖帝の生母の虞美人を憲園貴人とし、質帝の母の陳夫人を渤海孝王妃とした。

平準を改めて中準とし、宦官を內署において令、列とした。これより諸署が悉く閹人を丞、令と為した。

五年夏四月癸亥,大赦天下。益州郡夷叛,太守李颙討平之。復崇高山名為嵩高山。大雩。使侍御史行詔獄亭部,理冤枉,原輕繫,休囚徒。五月,太尉陳耽罷,司空許訓為太尉。閏月,永昌太守曹鸞坐訟黨人,弃市。詔黨人門生、故吏、父兄、子弟在位者,皆免官禁錮。六月壬戌,太常南陽劉逸為司空。秋七月,太尉許訓罷,光祿勳劉𥶡為太尉。冬十月壬午,御殿後槐樹自拔倒豎。司徒袁隗罷。十一月丙戌,光祿大夫楊賜為司徒。十二月,甘陵王定薨。試太學生年六十以上百餘人,除郎中、太子舍人至王家郎、郡國文學吏。是歲,鮮卑寇幽州。沛國言黃龍見譙。

5年夏4月、大赦を天下に実行した。

益州郡夷が叛き、太守の李颙が之を討ち平定した。再び崇高山の名を嵩高山とした。大雩があった。使侍御史行詔獄亭部、理冤枉、原輕繫,休囚徒。5月、太尉の陳耽が罷免され、司空の許訓が太尉となった。

閏月、永昌太守の曹鸞が坐訟されて党人とされ、弃市された。詔して党人門生、故吏、父兄、子弟在位者らは皆、免官禁錮となった。6月、太常の南陽の劉逸が司空となった。秋7月、太尉の許訓が罷免され、光禄勲の劉𥶡が太尉となった。

冬10月、御殿の裏の槐樹が自拔倒豎した。司徒の袁隗が罷免された。11月、光禄大夫の楊賜が司徒となった。12月、甘陵王の劉定が死去した。

試太學生で年六十以上の者が百余人おり、除郎中、太子舍人至王家郎、郡国文学吏。是歲,鮮卑が幽州に侵攻した。沛国で黄龍が譙で発見されたと噂になった。

六年春正月辛醜,大赦天下。二月,南宮平城門及武庫東垣屋自壞。夏四月,大旱,七州蝗。鮮卑寇三邊。市賈民為宣陵孝子者數十人,皆除太子舍人。秋七月,司空劉逸免,衛尉陳球為司空。八月,遣破鮮卑中郎將田晏出雲中,使匈奴中郎將臧旻與南單于出鴈門,護烏桓校尉夏育出高柳,並伐鮮卑,晏等大敗。冬十月癸丑朔,日有食之。太尉劉𥶡免。帝臨辟雍。辛丑,京師地震。辛亥,令天下繫囚罪未決,入縑贖。十一月,司空陳球免。十二月甲寅,太常河南孟<有>為太尉。庚辰,司徒楊賜免。太常陳耽為司空。鮮卑寇遼西。永安太僕王旻下獄死。

6年春正月、大赦が天下に実行された。

2月、南宮の平城門と武庫の東垣屋が自壊した。夏4月、大旱が起き、七州で蝗があった。鮮卑が三邊に侵攻した。市賈民為宣陵孝子者数十人、皆除太子舍人。秋7月、司空の劉逸が免職となり、衛尉の陳球が司空となった。

8月、鮮卑中郎将の田晏が雲中に、匈奴中郎将の臧旻と南単于が鴈門に、護烏桓校尉の夏育が高柳に出撃し、合力して鮮卑を討伐しようとしたが、田晏等は大敗した。冬10月、日食があった。

太尉の劉𥶡が免職となった。帝は辟雍に臨した。しばらくして、洛陽で地震があった。しばらくして、令して天下繫囚罪未決を入縑贖とした。11月、司空の陳球が免職となった。

12月、太常の河南の孟<有>が太尉となった。しばらくして、司徒の楊賜が免職となった。太常の陳耽が司空となった。鮮卑が遼西に侵攻した。永安太僕の王旻が獄に下され死んだ。

光和五年春正月,合浦、交阯烏滸蠻叛,招引九真、日南民攻沒郡縣。太尉孟<有>罷。二月辛亥朔,日有食之。癸丑,光祿勳陳國袁滂為司徒。己未,地震。始置鴻都門學生。三月辛丑,大赦天下,改元光和。太常常山張邕為太尉。夏四月丙辰,地震。侍中寺雌雞化為雄。司空陳耽免,太常來豔為司空。五月壬午,有白衣人入紱陽殿門,亡去不獲。六月丁丑,有鄢氣墯所御溫紱殿庭中。秋七月壬子,青虹見御坐玉堂後殿庭中。八月,有星孛於天市。九月,太尉張邕罷,太常陳球為太尉。司空來豔薨。冬十月,屯騎校尉袁逢為司空。皇后宋氏廢,后父執金吾酆下獄死。丙子晦,日有食之。十一月,太尉陳球免。十二月丁巳,光祿大夫橋玄為太尉。是歲,鮮卑寇酒泉。京師馬生人。初開西邸賣官,自關內侯、虎賁、羽林,入錢各有差。私令左右賣公卿,公千萬,卿五百萬。

光和元年春正月、合浦、交阯の烏滸蛮が叛き、九真、日南の民を招き入れて郡県を攻撃した。太尉の孟<有>が罷免となった。

2月、日食が起きた。しばらくして、光禄勲の陳国の袁滂が司徒となった。しばらくして、地震が起きた。鴻都門学の学生を始めて置いた。3月、大赦が天下で実行され、改元して光和となった。太常の常山の張邕が太尉となった。

夏4月、地震が起きた。侍中寺雌雞化為雄。司空の陳耽が免職となり、太常の來豔が司空となった。5月、有白衣人入徳陽殿門、亡去不獲。

6月、有黒気墯所御溫徳殿庭中。秋7月、青虹見御坐玉堂後殿庭中。8月、有星孛於天市。9月、太尉の張邕が罷免となり、太常の陳球が太尉となった。司空の來豔が死去した。

冬10月、屯騎校尉の袁逢が司空となった。皇后の宋氏が廃立され、皇后の父の執金吾の宋酆が獄に下されて死んだ。しばらくして、日食が起きた。11月、太尉の陳球が免職となった。12月、光禄大夫の橋玄が太尉となった。

この年、鮮卑が酒泉に侵攻した。洛陽で馬が人を生んだ事件があった。初めて西邸において売官市場を開き、関内侯、虎賁、羽林,入銭各有差という状況となった。私令左右売公卿となり、公は千万、卿は五百万の値がついた。

二年春,大疫,使常侍、中謁者巡行致醫藥。三月,司徒袁滂免,大鴻臚劉郃為司徒。乙丑,太尉橋玄罷,太中大夫段颎為太尉。京兆地震。司空袁逢罷,太常張濟為司空。夏四月甲戌朔,日有食之。辛巳,中常侍王甫及太尉段颎並下獄死。丁酉,大赦天下,諸黨人禁錮小功以下皆除之。東平王端薨。五月,衛尉劉𥶡為太尉。秋七月,使匈奴中郎將張脩有罪,下獄死。冬十月甲申,司徒劉郃、永樂少府陳球、衛尉陽球、步兵校尉劉納謀誅宦者,事泄,皆下獄死。巴郡板楯蠻叛,遣御史中丞蕭瑗督益州刺史討之,不克。十二月,光祿勳楊賜為司徒。鮮卑寇幽、幷二州。是歲,河間王利薨。洛陽女子生兒,兩頭四臂。

2年春、大疫が発生し、常侍・中謁者に巡行させ醫藥に到らせた。

3月、司徒の袁滂が免職となり、大鴻臚の劉郃が司徒となった。しばらくして、太尉の橋玄が罷免となり、太中大夫の段颎が太尉となった。京兆で地震があった。司空の袁逢が罷免となり、太常の張済が司空となった。

夏4月、日食があった。しばらくして、中常侍王甫と太尉の段颎が獄に下されて死んだ。しばらくして、大赦が天下に実行されたが、諸党人禁錮小功以下は皆除外された。東平王の劉端が死去した。

5月、衛尉の劉𥶡が太尉となった。秋7月、匈奴中郎将の張脩が罪を得て、獄に下され死んだ。

冬10月、司徒の劉郃、永楽少府の陳球、衛尉の陽球、步兵校尉の劉納が謀って宦官を誅殺しようとしたが、事が泄れ、皆獄に下されて死んだ。巴郡の板楯蛮が叛き、御史中丞の蕭瑗が使わされ、益州刺史の督して之を討伐したが、克てなかった。

12月、光禄勲の楊賜が司徒となった。鮮卑が幽、幷の二州に侵攻した。この年、河間王の劉利が死去した、洛陽で女子生兒,兩頭四臂という事件が起きた。

三年春正月癸酉,大赦天下。二月,公府駐駕廡自壞。三月,梁王元薨。夏四月,江夏蠻叛。六月,詔公卿舉能通《古文尚書》、《毛詩》、《左氏》、《穀梁春秋》各一人,悉除議郎。秋,表是地震,涌水出。八月,令繫囚罪未決,入縑贖,各有差。冬閏月,有星孛於狼、弧。鮮卑寇幽、幷二州。十二月己巳,立貴人何氏為皇后。是歲,作罼圭、靈昆苑。

3年春正月、大赦が天下に実行された。2月、公府駐駕廡が自壊した。3月、梁王の劉元が死去した。夏4月、江夏蛮が叛いた。

6月、詔して公卿に《古文尚書》、《毛詩》、《左氏》、《穀梁春秋》によく通じた者を各一人推薦させ、悉く議郎に除した。秋、表是地震、涌水出。8月、令して繫囚罪未決に対し、入縑贖させ、各有差であった。

冬閏月、有星孛於狼、弧。鮮卑が幽、幷の二州に侵攻した。12月、貴人の何氏を皇后にした。この年、作罼圭、靈昆苑であった。

四年春正月,初置騄驥廄丞,領受郡國調馬。豪右辜搉,馬一匹至二百萬。二月,郡國上芝英草。夏四月庚子,大赦天下。交阯刺史朱儁討交阯、合浦烏滸蠻,破之。六月庚辰,雨雹。秋七月,河南言鳳皇見新城,群鳥隨之;賜新城令及三老、力田帛,各有差。九月庚寅朔,日有食之。太尉劉𥶡免,衛尉許<有>為太尉。閏月辛酉,北宮東掖庭永巷署災。司徒楊賜罷。冬十月,太常陳耽為司徒。鮮卑寇幽、幷二州。是歲,帝作列肆於後宮,使諸采女販賣,更相盜竊爭鬥。帝著商估服,飲宴為樂。又於西園弄狗,著進賢冠,帶綬。又駕四驢,帝躬自操轡,驅馳周旋,京師轉相放效。

4年春正月、初めて騄驥廄丞を設置し、郡国調馬を領受させた。豪右辜搉、馬一匹至二百萬。2月、郡国上芝英草。夏4月、大赦を天下に実行した。交阯刺史の朱儁交阯、合浦の烏滸蛮を討伐し之を破った。

6月、雨雹があった。秋7月、河南において鳳皇が新城で発見され、鳥の群れを従えていたと噂になった;賜新城令及三老、力田帛,各有差。9月、日食が起きた。太尉の劉𥶡が免職となり、衛尉の許<有>が太尉となった。

閏月、北宮東掖庭永巷署で災があった。司徒の楊賜が罷免となった。冬10月、太常の陳耽が司徒となった。鮮卑が幽、幷の二州を攻撃した。

この年、霊帝は列肆を後宮で作り、諸采女に販売ささえ、更に相盜竊爭鬥した。霊帝は商估服を着て、飲宴為樂。又於西園弄狗,著進賢冠,帶綬。又駕四驢,帝躬自操轡,驅馳周旋,京師轉相放效。

五年春正月辛未,大赦天下。二月,大疫。三月,司徒陳耽免。夏四月,旱。太常袁隗為司徒。五月庚申,永樂宮署灾。秋七月,有星孛於太微。巴郡板楯蠻詣太守曹謙降。癸酉,令繫囚罪未決,入縑贖。八月,起四百尺觀於阿亭道。冬十月,太尉許<有>罷,太常楊賜為太尉。校獵上林苑,歷函谷關,遂巡狩於廣成苑。十二月,還,幸太學。

5年春正月、大赦が天下に実行された。2月、大疫があった。3月、司徒の陳耽が免職となった。夏4月、旱が起きた。太常の袁隗が司徒となった。5月、永楽宮署が灾となった。

秋7月、有星孛於太微。巴郡板楯蛮が太守の曹謙に降服してきた。しばらくして、令繫囚罪未決,入縑贖。8月、起四百尺觀於阿亭道。冬10月、太尉の許<有>が罷免となり、太常の楊賜が太尉となった。校獵上林苑、歷函谷関、遂巡狩於広成苑。12月、還、幸太學。

六年春正月,日南徼外國重譯貢獻。二月,復長陵縣,比豐、沛。三月辛未,大赦天下。夏,大旱。秋,金城河水溢。五原山岸崩。始置圃囿署,以宦者為令。冬,東海、東萊、珢邪井中冰厚尺餘。大有年。

6年春正月、日南徼外国の重譯が貢獻してきた。2月、復長陵県し、比豊、沛した。3月、大赦を天下に実行した。

夏、大旱があった。秋、金城で河水が溢れた。五原の山岸が崩れた。始めて圃囿署を設置し、以宦者為令とした。冬、東海、東萊、珢邪井中冰厚尺餘。大有年。

中平元年春二月,鉅鹿人張角自稱『黃天』,其部帥有三十六方,皆著黃巾,同日反叛。安平、甘陵人各執其王以應之。

三月戊申,以河南尹何進為大將軍,將兵屯都亭。置八關都尉官。壬子,大赦天下黨人,還諸徙者,唯張角不赦。詔公卿出馬、弩,舉列將子孫及吏民有明戰陣之略者,詣公車。遣北中郎將盧植張角,左中郎將皇甫嵩、右中郎將朱儁討潁川黃巾。庚子,南陽黃巾張曼成攻殺郡守褚貢。

夏四月,太尉楊賜免,太僕弘農訒盛為太尉。司空張濟罷,大司農張溫為司空。朱儁為黃巾波才所敗。侍中向栩、張鈞坐言宦者,下獄死。汝南黃巾敗太守趙謙於邵陵。廣陽黃巾殺幽州刺史郭勳及太守劉衛。

五月,皇甫嵩朱儁復與波才等戰於長社,大破之。

六月,南陽太守秦頡擊張曼成,斬之。交阯屯兵執刺史及合浦太守來達,自稱『柱天將軍』,遣交阯刺史賈蒴討平之。皇甫嵩朱儁大破汝南黃巾於西華。詔嵩討東郡,朱儁南陽盧植破黃巾,圍張角於廣宗。宦官誣奏植,抵罪。遣中郎將董卓張角,不克。

洛陽女子生兒,兩頭共身。秋七月,巴郡妖巫張脩反,寇郡縣。河南尹徐灌下獄死。

八月,皇甫嵩與黃巾戰於倉亭,獲其帥。乙巳,詔皇甫嵩北討張角。九月,安平王續有罪誅,國除。

冬十月,皇甫嵩與黃巾賊戰於廣宗,獲張角弟梁。角先死,乃戮其屍。以皇甫嵩為左車騎將軍。

十一月,皇甫嵩又破黃巾於下曲陽,斬張角弟寶。湟中義從胡北宮伯玉與先零羌叛,以金城人邊章、韓遂為軍帥,攻殺護羌校尉伶徵、金城太守陳懿。癸巳,朱儁拔宛城,斬黃巾別帥孫夏。詔減太官珍羞,御食一肉;廄馬非郊祭之用,悉出給軍。

十二月己巳,大赦天下,改元中平。

是歲,下邳王意薨,無子,國除。郡國生異草,備龍蛇鳥獸之形。

中平元年春2月、鉅鹿人の張角自ら『黃天』を号して、其部帥有三十六方、皆著黄巾し,同日に反叛した(黄巾の乱)。安平、甘陵の人はその王を捕らえた。

3月、河南尹の何進が大将軍となり、将兵を都亭に駐屯させた。八関に都尉の官職を設置した。しばらくして、大赦を天下の党人に対して実行し、諸徙者を還したが、張角だけは赦さなかった。詔して公卿に出馬させ、弩・舉列将の子孫及び吏民で戦に明るく陣之略の有る者を詣公車させた。北中郎将の盧植を派遣し、張角を討たせ、左中郎将の皇甫嵩、右中郎将の朱儁に潁川の黄巾を討伐させた。その後、南陽の黄巾の張曼成が郡守の褚貢を攻め滅ぼした。

夏4月、太尉の楊賜が免職となり、太僕の弘農の訒盛が太尉となった。司空の張済が罷免となり、大司農の張温が司空となった。朱儁は黄巾の波才に敗北した。侍中の向栩、張鈞が宦官の坐言により、獄に下されて死んだ。汝南の黄巾は太守の趙謙に邵陵で破られた。広陽の黄巾は幽州刺史の郭勲と太守の劉衛を殺害した。

5月、皇甫嵩朱儁は再び波才と長社で戦い、大いに破った(長社の戦い)。

6月、南陽太守の秦頡が張曼成を攻撃し、之を斬った。交阯の屯兵が刺史と合浦太守の來達を捕らえ、自ら『柱天将軍』と号したが、交阯刺史の賈蒴が之を討ち平定した。皇甫嵩朱儁は汝南黄巾を西華で大いに破った。詔して皇甫嵩は東郡を、朱儁南陽を討伐することになった。盧植は黄巾を破り、張角を広宗で包囲した。宦官は盧植を誣告し、抵罪した。中郎将の董卓が派遣され張角を攻撃したが、克てなかった。洛陽で女子生兒、兩頭共身であった。秋7月、巴郡の妖巫の張脩が反き、郡県を侵攻した。河南尹の徐灌が獄に下されて死んだ。8月、皇甫嵩は黄巾と倉亭で戦い、其の帥を捕虜とした。皇甫嵩に北で張角を討つ詔が出された。9月、安平王の劉續が罪を得て誅殺され、国を除かれた。

冬10月、皇甫嵩と黄巾賊は広宗で戦い、張角の弟の張梁を捕虜とした。張角は先に死んでおり、その屍を斬った。皇甫嵩を左車騎将軍に任命した。

11月、皇甫嵩は黄巾を曲陽で破り、張角の弟の張宝を斬った。湟中義従胡の北宮伯玉先零羌が反乱し、金城の人の辺章韓遂を軍帥とし、護羌校尉の伶徵、金城太守の陳懿を攻め滅ぼした。しばらく後、朱儁は宛城を陥落させ、黄巾の別帥の孫夏を斬った。詔を出し、太官珍羞、御食一肉;廄馬非郊祭之用を減じ、それらを悉く軍に提供させた。

12月、大赦が天下に実行され、改元して元号を中平とした。

是年、下邳王の劉意が死去し、無子で国を除かれた。郡国で生異草し、備龍蛇鳥獣之形した。

二年春正月,大疫。琅邪王據薨。二月己酉,南宮大灾,火半月乃滅。癸亥,廣陽門外屋自壞。

稅天下田,畝十錢。鄢山賊張牛角等十餘輩並起,所在寇鈔。

司徒袁隗免。三月,廷尉崔烈為司徒。北宮伯玉等寇三輔,遣左車騎將軍皇甫嵩討之,不克。夏四月庚戌,大風,雨雹。五月,太尉訒盛罷,太僕河內張延為太尉。

秋七月,三輔螟。左車騎將軍皇甫嵩免。八月,以司空張溫為車騎將軍,討北宮伯玉。九月,特進楊賜為司空。冬十月庚寅,司空楊賜薨,光祿大夫許相為司空。

前司徒陳耽、諫議大夫劉陶坐直言,下獄死。

十一月,張溫破北宮伯玉於美陽,因遣蕩寇將軍周慎追擊之,圍榆中;又遣中郎將董卓討先零羌。慎、卓並不克。鮮卑寇幽、幷二州。是歲,造萬金堂於西園。洛陽民生兒,兩頭四臂。

2年春正月、大疫が起きた。琅邪王の劉據が死去した。2月、南宮大灾し、火半月乃滅した。しばらくして、広陽門外屋自壊した。

税天下田、畝十銭。黒山賊張牛角等十餘輩が並んで挙兵し、所在寇鈔した。

司徒の袁隗が免職となった。3月、廷尉の崔烈が司徒となった。北宮伯玉等が三輔に侵攻し、左車騎将軍の皇甫嵩が討伐に向かったが、克てなかった。夏4月、大風と雨雹があった。5月、太尉の訒盛が罷免となり、太僕の河内の張延が太尉となった。

秋7月、三輔で螟が発生した。左車騎将軍の皇甫嵩が免職となった。8月、司空の張温が車騎将軍となり、北宮伯玉を討伐した。9月、特進の楊賜が司空となった。冬10月、司空の楊賜が死去し、光禄大夫の許相が司空となった。

前の司徒の陳耽、諫議大夫の劉陶が直言したという理由で、獄に下されて死んだ。

11月、張温が北宮伯玉を美陽で破り、蕩寇将軍の周慎に追擊させ、榆中で包囲した。;又、中郎将の董卓に先零羌を討伐させた。周慎、董卓は共に克てなかった。鮮卑が幽、幷二州に侵攻した。この年、造萬金堂於西園。洛陽民生兒,兩頭四臂。

三年春二月,江夏兵趙慈反,殺南陽太守秦頡。庚戌,大赦天下。大尉張延罷。車騎將軍張溫為太尉,中常侍趙忠為車騎將軍。

復修玉堂殿,鑄銅人四,黃鐘四,及天祿、蝦蟆,又鑄四出文錢。五月壬辰晦,日有食之。六月,荊州刺史王敏討趙慈,斬之。車騎將軍趙忠罷。秋八月,懷陵上有雀萬數,悲鳴,因鬥相殺。

冬十月,武陵蠻叛,寇郡界,郡兵討破之。前太尉張延為宦人所譖,下獄死。十二月,鮮卑寇幽、幷二州。

3年春2月、江夏の兵士の趙慈が反乱し、南陽太守の秦頡が殺害された。しばらくして、大赦が天下に実行された。大尉の張延が罷免された。車騎将軍の張温が太尉に、中常侍趙忠が車騎将軍となった。

復修玉堂殿,鑄銅人四,黃鐘四,及天祿、蝦蟆,又鑄四出文錢。5月、日食が起きた。6月、荊州刺史の王敏が趙慈を討ち、之を斬った。車騎将軍の趙忠が罷免された。秋8月、懷陵上有雀萬數,悲鳴,因鬥相殺。

冬10月、武陵蛮が叛き、郡界に侵攻し、郡兵が討ち之を破った。前の太尉の張延が宦人所譖で、獄に下され死んだ。12月、鮮卑が幽、幷二州に侵攻した。

四年春正月己卯,大赦天下。

二月,滎陽賊殺中牟令。己亥,南宮內殿罘罳自壞。三月,河南尹何苗討滎陽賊,破之,拜苗為車騎將軍。

夏四月,涼州刺史耿鄙討金城賊韓遂,鄙兵大敗,遂寇漢陽,漢陽太守傅燮戰沒。扶風人馬騰、漢陽人王國並叛,寇三輔。太尉張溫免,司徒崔烈為太尉。

五月,司空許相為司徒,光祿勳沛國丁宮為司空。六月,洛陽民生男,兩頭共身。

漁陽人張純與同郡張舉舉兵叛,攻殺右北平太守劉政、遼東太守楊終、護烏桓校尉公綦稠等。舉自稱天子,寇幽、冀二州。秋九月丁酉,令天下繫囚罪未決,入縑贖。

冬十月,零陵人觀鵠自稱『平天將軍』,寇桂陽,長沙太守孫堅擊斬之。十一月,太尉崔烈罷,大司農曹嵩為太尉。十二月,休屠各胡叛。

是歲,賣關內侯,假金印紫綬,傳世,入錢五百萬。

4年春正月、大赦を天下に実行した。

2月、滎陽の賊が中牟令を殺害した。しばらくして、南宮内殿罘罳が自壊した。3月、河南尹の何苗が滎陽の賊を討伐し、之を破った。何苗は車騎将軍となった。

夏4月、涼州刺史の耿鄙が金城の賊の韓遂を討伐したが、大敗し、漢陽が侵攻を受け、漢陽太守の傅燮が戰没した。扶風の人の馬騰、漢陽の人の王國が並叛し、三輔に侵攻した。太尉の張温が免職となり、司徒の崔烈が太尉となった。

5月、司空の許相が司徒、光禄勲の沛国の丁宮が司空となった。6月、洛陽民生男、両頭共身。

漁陽人の張純と同郡の張舉が舉兵叛し、右北平太守の劉政、遼東太守の楊終、護烏桓校尉の公綦稠等を攻め滅ぼした。張舉は天子を自称し、幽、冀二州に侵攻した。秋9月、天下繫囚罪未決,入縑贖を令した。

冬10月、零陵人の觀鵠が『平天将軍』を自称し、桂陽に侵攻したが、長沙太守の孫堅が擊ち、之を斬った。11月、太尉の崔烈が罷免となり、大司農の曹嵩が太尉となった。12月、休屠各胡が叛いた。

この歲、関内侯、假金印紫綬、伝世、入銭五百万。

五年春正月,休屠各胡寇西河,殺郡守邢紀。丁酉,大赦天下。

二月,有星孛於紫宮。黃巾餘賊郭太等起於西河白波谷,寇太原、河東。

三月,休屠各胡攻殺幷州刺史張懿,遂與南匈奴左部胡合,殺其單于。夏四月,汝南葛陂黃巾攻沒郡縣。太尉曹嵩罷。五月,永樂少府樊陵為太尉。

六月丙寅,大風。太尉樊陵罷。益州黃巾馬相攻殺刺史郗儉,自稱天子,又寇巴郡,殺郡守趙部,益州從事賈龍擊相,斬之。郡國七大水。秋七月,射聲校尉馬日磾為太尉。

八月,初置西園八校尉。司徒許相罷,司空丁宮為司徒。光祿勳南陽劉弘為司空。衛尉董重為票騎將軍。

九月,南單于叛,與白波賊寇河東。遣中郎將孟益率騎都尉公孫瓚討漁陽賊張純等。

冬十月,青、徐黃巾復起,寇郡縣。甲子,帝自稱『無上將軍』,燿兵於平樂觀。十一月,涼州賊王國圍陳倉,右將軍皇甫嵩救之。

遣下軍校尉鮑鴻討葛陂黃巾。巴郡板楯蠻叛,遣上軍別部司馬趙瑾討平之。公孫瓚與張純戰於石門,大破之。是歲,改刺史,新置牧。

5年春正月、休屠各胡が西河に侵攻し、郡守の邢紀が殺害された。しばらくして、大赦が天下に実行された。

2月、有星孛於紫宮した。黃巾賊の残党の郭太等が西河白波谷で起兵し、太原、河東に侵攻した。

3月、休屠各胡が幷州刺史張懿を攻め滅ぼし、南匈奴の左部胡と合流して、単于を殺害した。夏4月、汝南葛陂の黃巾が郡県に侵攻した。太尉の曹嵩が罷免となった。5月、永楽少府の樊陵が太尉となった。

6月、大風があった。太尉の樊陵が罷免となった。益州黃巾の馬相が刺史の郗儉を攻め滅ぼし、自ら天子を称した。馬相は巴郡にも侵攻し、郡守の趙部を攻め滅ぼしたが、益州従事の賈龍が馬相を迎撃し、斬った。郡国七つで大水があった。秋7月、射聲校尉の馬日磾が太尉となった。

8月、初めて西園八校尉が設置された。司徒の許相が罷免となり、司空の丁宮が司徒となった。光禄勲の南陽劉弘が司空となった。衛尉の董重が票騎将軍となった。

9月、南単于が反乱し、白波賊と共に河東に侵攻した。中郎将の孟益がは剣され、騎都尉の公孫瓚を率いて漁陽賊の張純等を討伐した。

冬10月、青、徐の黃巾が復び挙兵し、郡県に侵攻した。しばらくして、霊帝は自ら『無上将軍』と称し、平楽観で閲兵した。11月、涼州賊の王國が陳倉を包囲し、右将軍の皇甫嵩が援軍に赴いた。

下軍校尉の鮑鴻が派遣され葛陂黃巾の討伐した。巴郡の板楯蛮が反乱し、上軍別部司馬の趙瑾が派遣され之を討伐した。公孫瓚は張純と石門で戦い、大いに破った。この年、州刺史に代えて州牧制度が新設された。

六年春二月,左將軍皇甫嵩大破王國於陳倉。

三月,幽州牧劉虞購斬漁陽賊張純。下軍校尉鮑鴻下獄死。

夏四月丙午朔,日有食之。太尉馬日磾免,幽州牧劉虞為太尉。丙辰,帝崩於南宮嘉紱殿,年三十四。戊午,皇子辯即皇帝位,年十七。尊皇后曰皇太后太后臨朝。大赦天下,改元為光熹。封皇弟協為渤海王。後將軍袁隗為太傅,與大將軍何進參錄尚書事。上軍校尉蹇碩下獄死。

五月辛巳,票騎將軍董重下獄死。六月辛亥,孝仁皇后董氏崩。辛酉,葬孝靈皇帝於文陵。雨水。秋七月,甘陵王忠薨。庚寅,孝仁皇後歸葬河間慎陵。

渤海王協為陳留王。司徒丁宮罷。

八月戊辰,中常侍張讓、段珪殺大將軍何進,於是虎賁中郎將袁術燒東西宮,攻諸宦者。庚午,張讓、段珪等劫少帝及陳留王幸北宮紱陽殿。何進部曲將吳匡與車騎將軍何苗戰於朱雀闕下,苗敗,斬之。辛末,司隸校尉袁紹勒兵收偽司隸校尉樊陵、河南尹許相及諸閹人,無少長皆斬之。讓、珪等復劫少帝、陳留王走小平津。尚書盧植追讓、珪等,斬數人,其餘投河而死。帝與陳留王協夜步逐熒光行數里,得民家露車,共乘之。辛未,還宮。大赦天下,改光熹為昭寧。

幷州牧董卓殺執金吾丁原。司空劉弘免,董卓自為司空。九月甲戌,董卓廢帝為弘農王。自六月雨,至於是月。

6年春2月、左将軍の皇甫嵩が王國を陳倉で大破した。

3月、幽州牧の劉虞が購して漁陽賊の張純を斬った。下軍校尉の鮑鴻が獄に下されて死んだ。

夏4月、日食が起きた。太尉の馬日磾が免職となり、幽州牧の劉虞が太尉となった。しばらくして、霊帝は南宮嘉得殿で崩御した。34歳であった。皇子の劉弁が皇帝に即位した。劉弁は17歳であった。皇后の何氏を尊して皇太后とし、臨朝させた。大赦を天下に実行し、改元して光熹とした。皇弟の劉協を封じて渤海王とした。後将軍の袁隗を太傅にし、大将軍の何進を参録尚書事とした。上軍校尉の蹇碩が獄に下されて死んだ。

5月、票騎将軍の董重が獄に下されて死んだ。6月、孝仁皇后の董氏が死去した。その後、霊帝の遺体が文陵に埋葬された。雨水があった。秋7月、甘陵王の劉忠が死去した。孝仁皇后の董氏が河間慎陵に合葬された。徙

渤海王の劉協が陳留王に移された。司徒の丁宮が罷免された。

8月、中常侍張譲段珪が大将軍の何進を殺害した。その後、虎賁中郎将の袁術は東西の宮に焼き討ちをかけ、諸宦者を攻撃した。しばらくして、張譲段珪等は少帝と陳留王を連れて北宮徳陽殿に逃れた。何進の部曲の将の呉匡と車騎将軍の何苗は朱雀闕下で戦い、何苗が敗れて斬られた。しばらくして、司隸校尉の袁紹は勒兵し、偽司隸校尉の樊陵、河南尹の許相及諸閹人らを、無少長皆斬之した。張譲段珪等は再び少帝と陳留王を連れて小平津に逃亡した。尚書盧植張譲段珪等を追撃し、数人を斬り、生き残った者も河に身を投げて射札した。少帝と陳留王の劉協は夜步逐熒光行數里し、得民家露車して、共乘之した。しばらくして、還宮した。大赦を天下に実行し、光熹の元号を改めて昭寧とした。

幷州牧の董卓が執金吾の丁原を殺害した。司空の劉弘が免職となり、董卓は自ら司空となった。

9月、董卓は少帝を廃立して弘農王とした。6月よりこの月まで雨が降り続いていた。