甘卓伝

原文はhttp://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7070より。

  甘卓,字季思,丹陽人,秦丞相茂之後也。曾祖簶,為吳將。祖述,仕吳為尚書。父昌,太子太傅。吳平,卓退居自守。郡命主簿、功曹,察孝謙,州舉秀才,為吳王常侍。討石冰,以功賜爵都亭侯。東海王越引為參軍,出補離狐令。卓見天下大亂,棄官東歸,前至曆陽,與陳敏相遇。敏甚絓,共圖縱膻之計,遂為其子景娶卓女,共相結托。會周唱義,密使錢廣攻敏弟昶,敏遣卓討廣,頓硃雀橋南。會廣殺昶,告丹陽太守顧榮共邀說卓。卓素敬服榮,且以昶死懷懼,良久乃從之。遂詐疾迎女,斷橋,收船南岸,共滅敏,傳首於京都。

甘卓は、字を季思といい、丹陽の人である。秦帝国丞相の甘茂之の末裔である。曾祖父の甘寧孫呉の将である。祖父の甘述は、呉に仕えて尚書となった。父の甘昌は、太子太傅である。孫呉が平定されると、甘卓は退居して自守した。郡により主簿、功曹に取り立てられ、察孝謙、州舉秀才となり、呉王の常侍となった。石冰を討伐し、その功で都亭侯の爵位を賜った。東海王の司馬越は引為して参軍に取り立て、出補離狐令を出した。甘卓は天下大乱を見て、官を捨てて東歸し、歴陽まで到ったとき、陳敏に相遇した。陳敏は甚だ絓び、共に縦横の計を図り、子の陳景に甘卓の女を娶らせ、共相結托することを持ちかけた。ちょうど周が唱義し、密使の銭広が陳敏の弟の陳昶を攻撃してくると、陳敏は甘卓をさしむけて銭広を迎撃させようとし、朱雀橋の南に駐屯させた。銭広が陳昶を殺害すると、周は丹陽太守の顧栄に告げて共に甘卓を説得しようとした。甘卓は素から顧栄に敬服しており、且、陳昶の死に懼れを抱いていたため、良久として之に従った。そして、疾と偽って娘を取り戻し、橋を落として、船を南岸に収めて、共に陳敏を滅ぼし、首を都に送った。

  元帝初渡江,授卓前鋒都督、揚威將軍、曆陽內史。其後討周馥,征杜弢,屢經苦戰,多所擒獲。以前後功,進爵南鄉侯,拜豫章太守。尋遷湘州刺史,將軍如故。複進爵于湖侯。

東晋の元帝(司馬叡)が初めて渡江すると、甘卓を前鋒都督、揚威将軍、曆陽内史とした。その後、周馥を討伐し、杜弢を征伐し、屢経苦戦し、多所擒獲した。前後の功により、爵位を進めて南鄉侯となり、豫章太守となった。尋遷して湘州刺史となり、将軍としての職務はこれまでどおりとされた。複び進爵して于湖侯となった。

  中興初,以邊寇未靜,學校陵遲,特聽不試孝廉,而秀才猶依舊策試。卓上疏以為:「答問損益,當須博通古令,明達政體,必求諸墳索,乃堪其舉。臣所忝州往遭寇亂,學校久替,人士流播,不得比之餘州。策試之由,當藉學功,謂宜同孝廉例,申與期限。」疏奏,朝議不許。卓於是精加隱括,備禮舉桂陽谷儉為秀才。儉辭不獲命,州厚禮遣之。諸州秀才聞當考試,皆憚不行,惟儉一人到台,遂不復策試。儉恥其州少士,乃表求試,以高第除中郎。儉少有志行,寒苦自立,博涉經史。于時南土凋荒,經籍道息,儉不能遠求師友,唯在家研精。雖所得實深,未有名譽,又恥衒耀取達,遂歸,終身不仕,卒於家。

中興の初め、邊寇未静、学校陵遅、特聴不試孝廉という理由で、秀才猶依舊策試しようとした。甘卓は上疏してこう述べた:「答問損益,當須博通古令,明達政體,必求諸墳索,乃堪其舉。臣所忝州往遭寇亂,學校久替,人士流播,不得比之餘州。策試之由,當藉學功,謂宜同孝廉例,申與期限。」疏奏したが、朝議は不許であった。甘卓hsここにおいて、精加隱括し、備禮して桂陽の谷倹を秀才に推挙した。谷倹は辞退して不獲命であったが、州では厚礼して遣之した。諸州秀才は聞当考試、皆憚不行であったが、惟谷倹一人が到台し、遂に不復策試となった。谷倹は恥じて其州少士、乃表求試、以高第除中郎となった。谷倹は少有志行で、寒苦自立し、博涉経史であった。于時、南土は凋荒、経籍は道息であったが、谷倹は不能遠求師友で、唯在家研精した。所得宝深といえども、いまだ名誉があり、又衒耀取達を恥ており、遂歸し、終身不仕のまま家で卒した。

  卓尋遷安南將軍、梁州刺史、假節、督沔北諸軍,鎮襄陽。卓外柔內剛,為政簡惠,善於綏撫,估稅悉除,市無二價。州境所有魚池,先恆責稅,卓不收其利,皆給貧民,西土稱為惠政。

甘卓は尋遷して安南将軍、梁州刺史、仮節、督沔北諸軍となり、襄陽を鎮守した。甘卓は外柔内剛であり、為政簡惠で、善於綏撫で、估稅悉除で、市無二價であった。州境で所有する魚池は、先恆責稅で、甘卓は利益を上げようとせず、すべて貧民に施し、西土稱為惠政であるとされた。

  王敦稱兵,遣使告卓。卓乃偽許,而心不同之。及敦升舟,而卓不赴,使參軍孫雙詣武昌諫止敦。敦聞雙言,大驚曰:「甘侯前與吾語雲何,而更有異!正當慮吾危朝廷邪?吾今下唯除奸凶耳。卿還言之,事濟當以甘侯作公。」雙還報卓,卓不能決。或說卓且偽許敦,待敦至都而討之。卓曰:「昔陳敏之亂,吾亦先從後圖,而論者謂懼逼面謀之。雖吾情本不爾,而事實有似,心恆愧之。今若複爾,誰能明我!」時湘州刺史譙王承遣主簿訒騫說卓曰:「劉大連雖乘權寵,非有害於天下也。大將軍以其私憾稱兵象魏,雖托討亂之名,實失天下之望,此忠臣義士匡救之時也。昔魯連匹夫,猶懷蹈海之志,況受任方伯,位同體國者乎!今若因天人之心,唱桓文之舉,杖大順以掃逆節,擁義兵以勤王室,斯千載之運,不可失也。」卓笑曰:「桓文之事,豈吾所能。至於盡力國難,乃其心也。當共詳思之。」參軍李梁說卓曰:「昔隗囂亂隴右,竇融保河西以歸光武,今日之事,有似於此。將軍有重名於天下,但當推亡固存,坐而待之。使大將軍勝,方當崇將軍以方面之重;如其不勝,朝廷必以將軍代之。何憂不富貴,而釋此廟勝,決存亡于一戰邪!」騫謂梁曰:「光武創業,中國未平,故隗囂斷隴右,竇融兼河西,各據一方,鼎足之勢,故得文服天子,從容顧望。及海內已定,君臣正位,終於隴右傾覆,河西入朝。何則?向之文服,義所不容也。今將軍之于本朝,非竇融之喻也。襄陽之於大府,非河西之固也。且人臣之義,安忍國難而不陳力,何以北面于天子邪!使大將軍平劉隗,還武昌,筯石城之守,絕荊湘之粟,將軍安歸乎?勢在人手,而曰我處廟勝,未之聞也。」卓尚持疑未決,騫又謂卓曰:「今既不義舉,又不承大將軍檄,此必至之禍,愚智所見也。且議者之所難,以彼強我弱,是不量虛實者也。今大將軍兵不過萬餘,其留者不能五千,而將軍見眾既倍之矣。將軍威名天下所聞也,此府精銳,戰勝之兵也。擁強眾,藉威名,杖節而行,豈王含所能禦哉!溯流之眾,勢不自救,將軍之舉武昌,若摧枯拉朽,何所顧慮乎!武昌既定,據其軍實,鎮撫二州,施惠士卒,使還者如歸,此呂蒙所以克敵也。如是,大將軍可不戰而自潰。今釋必勝之策,安坐以待危亡,不可言知計矣。願將軍熟慮之。」

王敦が稱兵すると、使者を送って甘卓に告げた。甘卓は偽許したが、心では不同意であった。王敦は升舟したが、甘卓は赴かず、参軍の孫雙を武昌に使者として送り王敦を諌めさせた。王敦は雙言を聞いて、大いに驚いてこう言った:「甘侯前與吾語雲何,而更有異!正當慮吾危朝廷邪?吾今下唯除奸凶耳。卿還言之,事濟當以甘侯作公。」孫雙は帰還して甘卓に報告をしたが、甘卓は決断できなかった。或る者が甘卓に王敦に偽許することを説き、王敦が都に向かった後で之を討つべきと勧めた。甘卓はこう言った:「昔陳敏之亂,吾亦先從後圖,而論者謂懼逼面謀之。雖吾情本不爾,而事實有似,心恆愧之。今若複爾,誰能明我!」時に、湘州刺史で譙王の司馬承が主簿の訒騫を使者として送り甘卓を説得するためこう言った:「劉大連雖乘權寵,非有害於天下也。大將軍以其私憾稱兵象魏,雖托討亂之名,實失天下之望,此忠臣義士匡救之時也。昔魯連匹夫,猶懷蹈海之志,況受任方伯,位同體國者乎!今若因天人之心,唱桓文之舉,杖大順以掃逆節,擁義兵以勤王室,斯千載之運,不可失也。」甘卓は笑ってこう言った:「桓文之事,豈吾所能。至於盡力國難,乃其心也。當共詳思之。」参軍の李梁は甘卓に説いてこう言った:「昔隗囂亂隴右,竇融保河西以歸光武,今日之事,有似於此。將軍有重名於天下,但當推亡固存,坐而待之。使大將軍勝,方當崇將軍以方面之重;如其不勝,朝廷必以將軍代之。何憂不富貴,而釋此廟勝,決存亡于一戰邪!」訒騫は李梁にこう言った:「光武創業,中國未平,故隗囂斷隴右,竇融兼河西,各據一方,鼎足之勢,故得文服天子,從容顧望。及海內已定,君臣正位,終於隴右傾覆,河西入朝。何則?向之文服,義所不容也。今將軍之于本朝,非竇融之喻也。襄陽之於大府,非河西之固也。且人臣之義,安忍國難而不陳力,何以北面于天子邪!使大將軍平劉隗,還武昌,筯石城之守,絕荊湘之粟,將軍安歸乎?勢在人手,而曰我處廟勝,未之聞也。」甘卓は尚も疑いを持ち決断しなかったが、訒騫は又も甘卓にこう言った:「今既不義舉,又不承大將軍檄,此必至之禍,愚智所見也。且議者之所難,以彼強我弱,是不量虛實者也。今大將軍兵不過萬餘,其留者不能五千,而將軍見眾既倍之矣。將軍威名天下所聞也,此府精銳,戰勝之兵也。擁強眾,藉威名,杖節而行,豈王含所能禦哉!溯流之眾,勢不自救,將軍之舉武昌,若摧枯拉朽,何所顧慮乎!武昌既定,據其軍實,鎮撫二州,施惠士卒,使還者如歸,此呂蒙所以克敵也。如是,大將軍可不戰而自潰。今釋必勝之策,安坐以待危亡,不可言知計矣。願將軍熟慮之。」

  時敦以卓不至,慮在後為變,遣參軍樂道融苦要卓俱下。道融本欲背敦,因說卓襲之,語在融傳。卓既素不欲從敦,得道融說,遂決曰:「吾本意也。」乃與巴東監軍柳純、南平太守夏侯承、宜都太守譚該等十餘人,俱露檄遠近,陳敦肆逆,率所統致討。遣參軍司馬贊、孫雙奉表詣台,參軍羅英至廣州,與陶侃克期,參軍訒騫、虞沖至長沙,令譙王承堅守。征西將軍戴若思在江西,先得卓書,表上之,台內皆稱萬歲。武昌驚,傳卓軍至,人皆奔散。詔書遷卓為鎮南大將軍、侍中、都督荊梁二州諸軍事、荊州牧,梁州刺史如故,陶侃得卓信,即遣參軍高寶率兵下。

時に王敦は甘卓がやってこないため、要人して在後為變し、参軍の楽道融を使わせて甘卓と共に苦要した。楽道融は元々王敦に叛こうと考えていたため、甘卓を説得して王敦を襲撃させようとしたが、語は在融伝にある。甘卓は既に元々王敦に従うつもりはなかったため、楽道融の説得を得て、遂に決断してこう言った:「吾本意也。」。乃、巴東監軍の柳純、南平太守の夏侯承、宜都太守の譚該等十余人と共に、露檄遠近、陳敦肆逆、率所統致討。参軍の司馬贊、孫雙を遣わして奉表詣台し、参軍の羅英を広州に遣わし、陶侃と共に克期させようとし、参軍の訒騫、虞沖を長沙に送り、譙王の司馬承と共に堅守させた。征西将軍の戴淵(戴若思)が江西に有り、甘卓の書を先得し、之を表上し、台内は皆で万歳を唱えた。武昌は驚き、甘卓の軍が至ったと聞くと、人は皆奔散した。詔書により、甘卓は鎮南大将軍、侍中、都督荊梁二州諸軍事、荊州牧となり、梁州刺史の職務は元のままとされ、陶侃は甘卓の信を得て、即ちに参軍の高宝に兵を率いさせて下らせた。

  卓雖懷義正,而性不果毅,且年老多疑,計慮猶豫,軍次豬口,累旬不前。敦大懼,遣卓兄子行參軍仰求和,謝卓曰:「君此自是臣節,不相責也。吾家計急,不得不爾。想便旋軍襄陽,當更結好。」時王師敗績,敦求台騶虞幡駐卓。卓聞周邈、戴若思遇害,流涕謂仰曰:「吾之所憂,正謂今日。每得朝廷人書,常以胡寇為先,不悟忽有蕭牆之禍。且使聖上元吉,太子無恙,吾臨敦上流,亦未敢便危社稷。吾適徑據武昌,敦勢逼,必劫天子以絕四海之望。不如還襄陽,更思後圖。」即命旋軍。都尉秦康說卓曰:「今分兵取敦不難,但斷彭澤,上下不得相赴,自然離散,可一戰擒也。將軍既有忠節,中道而廢,更為敗軍將,恐將軍之下亦各便求西還,不可得守也。」卓不能從。樂道融亦日夜勸卓速下。卓性先𥶡和,忽便強塞,徑還襄陽,意氣騷擾,舉動失常,自照鏡不見其頭,視庭樹而頭在樹上,心甚惡之。其家金櫃鳴,聲似槌鏡,清而悲。巫雲:「金櫃將離,是以悲鳴。」主簿何無忌及家人皆勸令自警。卓轉更很愎,聞諫輒怒。方散兵使大佃,而不為備。功曹榮建固諫,不納。襄陽太守周慮等密承敦意,知卓無備,詐言湖中多魚,勸卓遣左右皆捕魚,乃襲害卓於寢,傳首於敦。四子散騎郎蕃等皆被害。太寧中,追贈驃騎將軍,諡曰敬。

甘卓は懐義正であったが、性不果毅であり、且つ年老で多疑となっており、計慮猶豫で、軍次豬口で、累旬不前であった。王敦は大いに懼れ、甘卓の兄の子の行参軍の甘仰を派遣し和議を求め、甘卓に対して謝してこう言った:「君此自是臣節,不相責也。吾家計急,不得不爾。想便旋軍襄陽,當更結好。」時に東晋の官軍は敗北し、王敦は求台騶虞幡駐卓した。甘卓は周邈、戴若思(戴淵)が害されたことを聞き、流涕して謂仰して言った:「吾之所憂,正謂今日。每得朝廷人書,常以胡寇為先,不悟忽有蕭牆之禍。且使聖上元吉,太子無恙,吾臨敦上流,亦未敢便危社稷。吾適徑據武昌,敦勢逼,必劫天子以絕四海之望。不如還襄陽,更思後圖。」即ちに命じて旋軍した。都尉の秦康は說して甘卓にこう言った:「今分兵取敦不難,但斷彭澤,上下不得相赴,自然離散,可一戰擒也。將軍既有忠節,中道而廢,更為敗軍將,恐將軍之下亦各便求西還,不可得守也。」甘卓は従うことができなかった。楽道融は日夜を急いで甘卓に速下するよう勧めた。甘卓の性は先𥶡和であり、忽便強塞で、徑還襄陽で、意氣騷擾で、舉動失常であり、自照鏡不見其頭であり、視庭樹而頭在樹上であったから、心は甚だ穏やかでなかった。其家金櫃鳴で、聲似槌鏡で、清而悲であった。巫がこう言った:「金櫃將離,是以悲鳴。」主簿の何無忌や家人は皆、令自警することを勧めた。甘卓は轉更很愎で、諫を聞くと輒怒しだした。方散兵使大佃とし、不測の事態に備えようとはしなかった。功曹の栄建は固く諫めたが、納れられなかった。襄陽太守の周慮等は密かに王敦の意を受けて、甘卓が無備であることを知り、湖中に多魚であると偽って、甘卓に左右の者全員で魚取りをすることを勧めて、甘卓が眠ったところを襲害し、首を王敦の元に送った。四子があったが、散騎郎の甘蕃を始め、皆が害されてしまった。太寧中、驃騎将軍が追贈され、敬という諡号が与えられた。