張闓伝

原文はhttp://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7076より。文字が潰れているけど、張昭の曾孫の張闓のこと。潰れ部分をどうするかは後で考える。

  張闓,字敬緒,丹陽人,吳輔吳將軍昭之曾孫也。少孤,有志操。太常薛兼進之於元帝,言闓才幹貞固,當今之良器。即引為安東參軍,甚加禮遇。轉丞相從事中郎,以母憂去職。既葬,帝強起之,闓固辭疾篤。優命敦逼,遂起視事。及帝為晉王,拜給事黃門侍郎,領本郡大中正。以佐翼勳,賜爵丹陽縣侯,遷侍中。

張闓は、字を敬緒といい、丹陽の人である。孫呉の輔呉將軍の張昭曾孫である。少孤で、有志操であった。太常の薛兼は司馬叡(後の東晋の元帝)に対して、張闓の才幹が貞固で當今之良器であると言った。即ちに招かれて安東参軍に任じられ、甚加の礼遇を受けた。丞相従事中郎になったが、母憂により去職した。既に葬儀を終えると、元帝は強起之したが、張闓は固辞疾篤した。優命敦逼で、遂起視事した。司馬叡が晋王になると、給事黃門侍郎、領本郡大中正となった。以佐翼勳、賜爵丹陽県侯、遷侍中となる。

  帝踐闓,出補晉陵內史,在郡甚有威惠。帝下詔曰:「夫二千石之任,當勉勵其紱,綏齊所闓,使𥶡而不縱,嚴而不苛,其于勤功督察,便國利人,抑強扶弱,使無雜濫,真太守之任也。若聲過其實,古人所不取。功乎異端,為政之甚害,蓋所貴者本也。」闓遵而行之。時所部四縣並以旱失田,闓乃立曲阿新豐塘,溉田八百餘頃,每歲豐稔。葛洪為其頌。計用二十一萬一千四百二十功,以擅興造免官。後公卿並為之言曰:「張闓興陂溉田,可謂益國,而反被黜,使臣下難複為善。」帝感悟,乃下詔曰:「丹陽侯闓昔以勞役部人免官,雖從吏議,猶未掩其忠節之志也。倉廩國之大本,宜得其才,今以闓為大司農。」闓陳黜免始爾,不宜便居九列。疏奏,不許,然後就職。帝晏駕,以闓為大匠卿,營建平陵,事畢,遷尚書。蘇峻之役,闓與王導俱入宮侍衛。峻使闓持節權督東軍。王導潛與闓謀,密宣太后詔于三吳,令速起義軍。陶侃等至,假闓節,行征虜將軍,與振威將軍陶回共督丹陽義軍。闓到晉陵,使內史劉耽盡以一部穀,並遣吳郡度支運四部穀,以給車騎將軍郗鑒。又與吳郡內史蔡謨、前吳興內史虞潭、會稽內史王舒等招集義兵,以討峻。峻平,以尚書加散騎常侍,賜爵宜陽伯。遷廷尉,以疾解職,拜金紫光祿大夫。尋卒,時年六十四。子混嗣。闓箋表文議傳於世。

元帝が踐闓すると、出補晉陵内史し、在郡甚有威惠。

元帝は下詔して言った:「夫二千石之任,當勉勵其紱,綏齊所蒞,使𥶡而不縱,嚴而不苛,其于勤功督察,便國利人,抑強扶弱,使無雜濫,真太守之任也。若聲過其實,古人所不取。功乎異端,為政之甚害,蓋所貴者本也。」張闓は遵而行之した。

時所部四県並以旱失田で、張闓は乃立曲阿新豐塘で、溉田八百餘頃し、毎歲豊稔であった。葛洪為其頌。計用二十一萬一千四百二十功、以擅興造免官。

後に公卿らは言った:「張闓興陂溉田,可謂益國,而反被黜,使臣下難複為善。」元帝は感悟し、下詔して言った:「丹陽侯闓昔以勞役部人免官,雖從吏議,猶未掩其忠節之志也。倉廩國之大本,宜得其才,今以闓為大司農。」闓陳黜免始爾,不宜便居九列。疏奏,不許,然後就職。

元帝が晏駕すると、張闓を大匠卿、營建平陵、事畢、遷尚書とした。蘇峻の役が起きると、張闓は王導と俱に入宮して侍衛した。蘇峻は張闓を持節權督東軍にした。王導は密かに張闓と謀り、宣太后の密詔を三呉に発し、義軍を決起させた。陶侃等が至ると、假に張闓に節を与え、行征虜將軍とし、振威將軍の陶回と共に督丹陽義軍とした。張闓は晉陵に到着すると、内史の劉耽を遣って盡以一部穀、並遣吳郡度支運四部穀し、車騎將軍の郗鑒の軍に兵糧を送った。又、呉郡内史の蔡謨、前の呉興内史の虞潭、会稽内史の王舒等を招集し義兵を集め、蘇峻を討たせた。蘇峻の乱が平定されると、尚書加散騎常侍となり、賜爵宜陽伯された。廷尉に遷った後、疾で解職となり、拜金紫光禄大夫した。尋に卒し、時年六十四であった。子の張混が嗣いだ。張闓の箋表文議は傳於世。