顧衆伝

http://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7076より。

  顧眾,字長始,吳郡吳人,驃騎將軍榮之族弟也。父秘,交州刺史,有文武才幹。眾出後伯父,早終,事伯母以孝聞。光祿硃誕器之。州辟主簿,舉秀才,除余杭、秣陵令,並不行。元帝為鎮東將軍。命為參軍。以討華軼功,封東鄉侯,辟丞相掾。秘卒,州人立眾兄壽為刺史,為州人所害,眾往交州迎喪,值杜弢之亂,崎嶇六年乃還。秘曾蒞吳興,吳興義故以眾經離寇難,共遺錢二百萬,一無所受。

顧衆は字は長始といい、呉郡呉人である。驃騎将軍の顧栄の族弟である。父の顧秘は交州刺史であり、文武才幹があった。顧衆は伯父に出後し、早終し、伯母に事して孝聞で評判になった。光祿の硃誕に器之された。州に辟され主簿となり、舉して秀才とされ、除して余杭、秣陵の令となり、並不行であった。元帝により鎮東将軍に任命された。後に命令で参軍となった。華軼を討つのに功があり、東鄉侯に封じられ、辟されて丞相掾となった。父の顧秘が卒すると、州人は兄の顧壽を立てて刺史としたが、州人の所害を受けたため、顧眾往交州して迎喪し、值杜弢之亂で、崎嶇六年乃還となった。秘曾で蒞して呉興に行き、呉興で義故以で顧衆は經離寇難したが、共遺錢二百萬、一無所受。

  及帝踐阼,征拜駙馬都尉、奉朝請,轉尚書郎。大將軍王敦請為從事中郎,上補南康太守。會詔除鄱陽太守,加廣武將軍。眾徑之鄱陽,不過敦,敦甚怪焉。及敦構逆,令眾出軍,眾遲回不發。敦大怒,以軍期召眾還,詰之,聲色甚窅。眾不為動容,敦意漸釋。時敦又怒宣城內史陸喈,眾又辨明之。敦長史陸玩在坐,代眾危懼,出謂眾曰:「卿真所謂剛亦不吐,柔亦不茹,雖仲山甫何以加之!」敦事捷,欲以眾為吳興內史。眾固辭,舉吏部郎桓彝,彝亦讓眾,事並不行。敦鎮姑孰,複以眾為從事中郎。敦平,除太子中庶子,為義興太守,加揚威將軍。

及んで元帝が踐阼すると、征拜して駙馬都尉となり、奉朝請で、轉尚書郎となった。大将軍の王敦に請われて従事中郎となり、南康太守に上補された。會詔して鄱陽太守に除され、広武将軍を加えられた。顧衆は徑之して鄱陽におり、王敦に対して不過であったため、王敦は甚だ怪焉した。王敦が構逆するに及び、令して顧衆に出軍させようとしたが、顧衆は遲回不發であった。王敦は大怒し、期限を切って顧衆を召還し、詰之したが、聲色甚窅であった。顧衆は不為動容であり、王敦は意漸釋した。時に王敦は又怒り、宣城内史の陸喈に対して、顧衆は再び弁明した。王敦の長史の陸玩に在坐していたが、顧衆のために危懼し、顧衆のために出謂して言った:「卿真所謂剛亦不吐,柔亦不茹,雖仲山甫何以加之!」王敦は事捷し、顧衆を呉興内史にしたいと欲した。顧衆は固辞し、舉吏部郎として桓彝に舉した。桓彝は顧衆に対して讓であり、事並不行であった。王敦は鎮姑孰で、再び顧衆を従事中郎にした。王敦の乱が平定されると、太子中庶子に除され、義興太守となり、揚威将軍を加えられた。

  蘇峻反,王師敗績,眾還吳,潛圖義舉。時吳國內史庾冰奔於會稽,峻以蔡謨代之。前陵江將軍張絜為峻收兵于吳,眾遣人喻絜,絜從之。眾乃遣郎中徐機告謨曰:「眾已潛闔家兵,待時而奮,又與張絜克期效節。」謨乃檄眾為本國督護,揚威將軍仍舊,眾從弟護軍將軍颺為威遠將軍、前鋒督護。吳中人士同時響應。

蘇峻が反乱を起こし、晋軍が敗北すると、顧衆は呉に帰還し、潛圖義舉した。時に呉国内史の庾冰が会稽に逃れ、蘇峻は蔡謨をその後任とした。前の陵江将軍の張絜が蘇峻のために呉で收兵をし、顧衆は人を派遣して張絜を喻し、張絜はこれに従った。顧衆は郎中の徐機を派遣し蔡謨に告げてこう言った:「眾已潛闔家兵,待時而奮,又與張絜克期效節。」蔡謨は乃檄して顧衆を本国督護、揚威将軍とし、顧舊(顧衆の従弟)を護軍将軍に、顧颺を威遠将軍、前鋒督護とした。呉中の人士は同時に響應した。

  峻遣將弘徽領甲卒五百,鼓行而前。眾與颺、絜要擊徽,戰于高莋,大破之,收其軍實。謨以冰當還任,故便去郡。眾遣颺率諸軍屯無錫。冰至,鎮禦亭,恐賊從海虞道入,眾自往備之。而賊率張健、馬流攻無錫,颺等大敗,庚冰亦失守,健等遂據吳城。眾自海虞由婁縣東倉與賊別率交戰,破之,義軍又集進屯烏苞。會稽內史王舒、吳興內史虞潭並檄眾為五郡大督護,統諸義軍討健。潭遣將姚休為眾前鋒,與賊戰沒。眾還守紫壁。

蘇峻は将の弘徽を派遣し、領甲卒五百させ、鼓行而前させた。顧秋と顧颺、張絜は弘徽を要擊し、高莋で戦って之を大破之い、軍宝を領得した。蔡謨は庾冰を呼び戻して還任させ、故便去郡した。顧衆は顧颺を派遣し、率諸軍屯無錫させた。庾冰が戻ると、鎮禦亭し、賊が從海虞道入することを恐れたが、顧衆は自ら往備之した。而、賊が張健、馬流を率いて無錫を工芸し、顧颺等が大敗したため、庚冰はまたも失守し、張健等が遂に呉城まで攻め寄せた。顧衆は自ら海虞由婁縣東倉與賊の別率と交戦し、之を破り、義軍が再び集り進んで烏苞に屯した。会稽内史の王舒、呉興内史の虞潭は並んで檄して顧衆を五郡大督護とし、諸義軍を統率させて張健を討たせた。虞潭は遣将の姚休を顧衆の前鋒とし、與賊戰没させた。顧衆は還って紫壁を守った。

  時賊党方銳,義軍沮退,人鹹勸眾過浙江。眾曰:「不然。今保固紫壁,可得全錢唐以南五縣。若越他境,便為寓軍,控引無所,非長計也。」臨平人範明亦謂眾曰:「此地險要,可以制寇,不可委也。」眾乃版明為參軍。明率宗黨五百人,合諸軍,凡四千人,複進討健。健退于曲阿,留錢弘為吳令。軍次路丘,即斬弘首。眾進住吳城,遣督護硃祈等九軍,與蘭陵太守李閎共守庱亭。健遣馬流、陶陽等往攻之。閎與祈等逆擊,大破之,斬首二千餘級。

当時、賊党が方銳で、義軍は沮退であり、人は鹹勸して顧衆に過浙江するよう言った。顧衆は言った:「不然。今保固紫壁,可得全錢唐以南五縣。若越他境,便為寓軍,控引無所,非長計也。」臨平人の範明はまた謂して顧衆に言った:「此地險要,可以制寇,不可委也。」顧衆は乃版して範明を参軍とした。範明は宗黨五百人を率いて、諸軍に合流し、凡四千人となり、再び張健を討つため進軍した。張健は曲阿に退き、錢弘を呉の令として留めた。軍は路丘に進むと、即ぐに錢弘を斬首した。顧衆は進んで呉城に行き、督護の朱祈等九軍を遣わして、蘭陵太守の李閎と共に庱亭を守らせた。張健は馬流、陶陽等を派遣し攻撃させた。李閎と朱祈等は逆に迎撃して大いに破り、斬った首は二千餘級に上った。

  峻平,論功,眾以承檄備義,推功於謨,謨以眾唱謀,非己之力,俱表相讓,論者美之。封鄱陽縣伯,除平南軍司,不就。更拜丹陽尹、本國大中正,入為侍中,轉尚書。咸康末,遷領軍將軍、揚州大中正,固讓不拜。以母憂去職。

蘇峻の乱が平定され、論功により、顧衆は承檄備義して、蔡謨の功績を推したが、蔡謨もまた顧衆の謀を唱え、非己之力を主張し、俱に相讓を表したため、論者は之を美とした。鄱陽の県伯に封じられ、平南軍司に除されたが、不就した。更に丹陽尹、本国大中正とされ、入為侍中,轉尚書となった。咸康末年に、領軍将軍、揚州大中正、とされたが、固譲し不拜した。以母憂去職した。

  穆帝即位,何充執政,複征眾為領軍,不起。服闕,乃就。是時充與武陵王不平,眾會通其間,遂得和釋。充崇信佛教,眾議其糜費,每以為言。嘗與充同載,經佛寺,充要眾入門。眾不下車。充以眾州裏宿望,每優遇之。以年老,上疏乞骸骨,詔書不許。遷尚書僕射。永和二年卒,時年七十三。追贈特進、光祿大夫,諡曰靖。長子昌嗣,為建康令。第三子會,中軍諮議參軍。時稱美士。

晋の穆帝が即位すると、何充が執政し、複征して顧衆を領軍としようとしたが、顧衆は不起した。服闕すると、乃就した。是時、何充と武陵王が不平で、顧衆は會通其間し、遂得和釋させた。何充が崇信佛教すると、顧衆は其糜費を議したが、每以為言であった。嘗て、何充と同載し、經佛寺で、何充は顧衆に入門を要請した。顧衆は不下車であった。何充は顧衆が州裏で宿望あるため、之を每優遇した。以年老となると、上疏して乞骸骨したが、詔書で不許とされた。尚書僕射に転任となった。永和二年に死去した。時年七十三歳であった。追贈されて特進、光録大夫となり、靖の諡号が与えられた。長子の顧昌が嗣ぎ、建康の令となった。第三子の顧会は、中軍諮議参軍となった。時稱美士とされた。