羊鑒伝

原文はhttp://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7081より。下書き昨日ほとんど書いたので楽ができる。

羊鑒,字景期,太山人也。父濟,匈奴中郎將。兄煒,曆太僕、兗徐二州刺史。鑒為東陽太守,累遷太子左衛率。時徐龕反叛,司徒王導以鑒是龕州裏冠族,必能制之,請遣北討。鑒深辭才非將帥。太尉郗鑒亦表謂鑒非才,不宜妄使。導不納,強啟授以征討都督,果敗績。導以舉鑒非才,請自貶,帝不從。有司正鑒斬刑,元帝詔以鑒太妃外屬,特免死,除名。久之,為少府。及王敦反,明帝以鑒敦舅,又素相親黨,微被嫌責。及成帝即位,豫討蘇峻,以功封豐城縣侯,徙光祿勳,卒。

羊鑒は、字を景期という。太山の人である。父の羊濟は匈奴中郎將であった。兄の羊煒は太僕、兗徐二州刺史を歴任した。羊鑒は東陽太守となり、その後昇進して太子左衛率になった。徐龕が反乱を起こすと、司徒の王導は羊鑒を推挙し、徐龕の拠る州の裏冠族であり、必能制之,請遣北討であると理由を言った。羊鑒は深辭し、自身の才能は將帥に向かないと述べた。太尉の郗鑒もまた表し、羊鑒では不適任であり用いるべきではないと述べた。王導はそれでもなお、強いて羊鑒に征討都督の任務を与えたが、果して敗北した。王導は羊鑒が不適任であったことをようやく認め、自身の降格を願い出たが、元帝は許さなかった。有司は羊鑒を斬刑に処すべきと述べたが、元帝も詔を出し、羊鑒は太妃の外屬であることから特別に死罪を許し、除名に止めた。その後しらばらくして、羊鑒は復職し少府となった。王敦が反乱を起こすと、明帝は羊鑒が王敦の舅であり、又素相親黨であったことから、微被嫌責した。成帝の時代、羊鑒は蘇峻の討伐に功績があり、豐城縣侯となった。光祿勳までになって死去した。