蔡豹伝

http://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7081より。まめに保存・改訂する。

  蔡豹,字士宣,陳留圉城人。高祖質,漢衛尉,左中郎將邕之叔父也。祖睦,魏尚書。父宏,陰平太守。豹有氣幹,曆河南丞,長樂、清河太守。避亂南渡,元帝以為振武將軍、臨淮太守,遷建威將軍、徐州刺史。初,祖逖為徐州,豹為司馬,素易豹。至是,逖為豫州,而豹為徐州,俱受征討之寄,逖甚愧之。

蔡豹は、字は士宣という。陳留圉城人である。高祖の蔡質は後漢の衛尉であるが、彼は左中郎將の蔡邕の叔父にあたる。祖の蔡睦は曹魏尚書である。父の蔡宏は陰平太守である。

蔡豹は氣幹があり、曆河南丞、長樂、清河太守を歴任した。避亂して南に渡り、東晋元帝により振武将軍・臨淮太守に任命され、後に建威将軍・徐州刺史に転任となった。祖逖が徐州にいたころ、蔡豹は司馬に取立てられ、素易豹。後に、祖逖が豫州に移ると、蔡豹が徐州に赴任して、俱受征討之寄したので、祖逖は甚だ之を愧いた。

  是時太山太守徐龕與彭城內史劉遐同討反賊周撫於寒山,龕將於藥斬撫。及論功,而遐先之。龕怒,乙太山叛,自號安北將軍、兗州刺史,攻破東莞太守侯史旄而據其塢。石季龍伐之,龕懼,求降,元帝許焉。既而複叛歸石勒,勒遣其將王伏都、張景等數百騎助龕。詔征虜將軍羊鑒、武威將軍侯禮、臨淮太守劉遐、鮮卑段文鴦等與豹共討之。諸將畏懦,頓兵下邳,不敢前。豹欲進軍,鑒固不許。龕遣使請救於勒,勒辭以外難,而多求於龕。又王伏都等淫其室。龕知勒不救,且患伏都等縱暴,乃殺之,複求降。元帝惡其反覆不納,敕豹、鑒以時進討。鑒及劉遐等並疑憚不相聽從,互有表聞,故豹久不得進。尚書令刁協奏曰:「臣等伏思淮北征軍已失不速,今方盛暑,冒涉山險,山人便弓弩,習土俗,一人守厄,百夫不當。且運漕至難,一朝糧乏,非複智力所能防禦也。《書》雲寧致人,不致於人。宜頓兵所在,深壁固壘,至秋不了,乃進大軍。」詔曰:「知難而退,誠合兵家之言。然小賊雖狡猾,故成擒耳。未戰而退,先自摧衄,亦古之所忌。且邵存已據賊壘,威勢既振,不可退一步也。」於是遣治書禦史郝嘏為行台,催攝令進討。豹欲徑進,鑒執不聽。協又奏免鑒官,委豹為前鋒,以鑒兵配之,降號折沖將軍,以責後效。豹進據卞城,欲以逼龕。時石季龍屯钜平,將攻豹,豹夜遁。退守下邳。徐龕襲取豹輜重于檀丘,將軍留寵、陸黨力戰,死之。

当時、太山太守の徐龕が彭城内史の劉遐と共に反賊の周撫を寒山で討伐し、徐龕の将の於藥が周撫を斬った。論功行賞において、劉遐の功績が高く評価された。徐龕は怒り、太山で叛乱を起こし、自ら安北將軍・兗州刺史を称し、東莞太守の侯史を破り、旄而據其塢。石季龍(石超)が攻めてくると、徐龕は懼れて東晋への帰参を願い出てきたため、元帝はこれを許した。後に徐龕が再び叛いて石勒に服属し、石勒が其將の王伏都、張景等數百騎を徐龕の援軍として派遣した。東晋からは征虜將軍の羊鑒、武威將軍の侯禮、臨淮太守の劉遐、鮮卑の段文鴦等が蔡豹の元に派遣され、徐龕討伐にあたった。諸將は畏懦で、頓兵して下邳にとどまり、敢へて前に進もうとはしなかった。蔡豹は進軍しようとしたが、羊鑒は固く不許した。徐龕は遣使して石勒に援軍を求め、石勒は辭以外難と判断し、徐龕に善処のみを期待した。王伏都等は淫其室した。徐龕は石勒が不救なのを知り、且つ王伏都等の縱暴を憎んだため、彼等を殺し、再び東晋への降伏を求めてきた。

元帝は徐龕の反覆を憎んでいたため降伏を許さず、蔡豹、羊鑒に徐龕討伐を命令した。羊鑒と劉遐等は並疑憚不相聽從で互有表聞したため、蔡豹は久しく進むことができなかった。

尚書令の刁協は奏して言った。「臣等伏思淮北征軍已失不速,今方盛暑,冒涉山險,山人便弓弩,習土俗,一人守厄,百夫不當。且運漕至難,一朝糧乏,非複智力所能防禦也。《書》雲寧致人,不致於人。宜頓兵所在,深壁固壘,至秋不了,乃進大軍。」

元帝は詔して言った:「知難而退,誠合兵家之言。然小賊雖狡猾,故成擒耳。未戰而退,先自摧衄,亦古之所忌。且邵存已據賊壘,威勢既振,不可退一步也。」

ここにおいて、治書禦史の郝嘏が派遣され行台となり、催攝令進討した。蔡豹は徑進しようとしたが、羊鑒は執不聽した。刁協は又奏して羊鑒を免職とし、蔡豹に前鋒を委ね、羊鑒の兵を配属させた。羊鑒は折沖將軍に降格となり、以責後效した。蔡豹は進んで卞城に拠り、徐龕を攻撃しようとした。当時、石季龍(石超)が钜平にいたが、蔡豹はその攻撃を受け、夜遁せざるを得なくなった。蔡豹は退いて下邳を守った。徐龕は蔡豹の輜重を檀丘で略奪し、將軍の留寵、陸黨は力戦したが戦死した。

  豹既敗,將歸謝罪,北中郎王舒止之,曰:「胡寇方至,使君且當攝職,為百姓障捍。賊退謝罪,不晚也。」豹從之。元帝聞豹退,使收之。使者至,王舒夜以兵圍豹,豹以為他難,率麾下擊之,聞有詔乃止。舒執豹,送至建康,斬之,屍於市三日,時年五十二。

蔡豹は敗北の責任をとって謝罪しようとした。北中郎の王舒はこれを蔡豹を宥めて言った:「胡寇方至,使君且當攝職,為百姓障捍。賊退謝罪,不晚也。」蔡豹はこの言葉に従った。元帝は蔡豹の敗北を聞き、収監しようと使者を送った。使者が到着すると、王舒は夜間に兵を集めて蔡豹を囲んだ。蔡豹は麾下の擊之を率いて抵抗しようとしたが、詔が出ていることを知り大人しくした。王舒は蔡豹を捕らえて建康に身柄を送り、死罪にした上で屍体を市場に三日間放置した。蔡豹は五十二歳であった。

  豹在徐土,內撫將士,外懷諸眾,甚得遠近情,聞其死,多悼惜之。無子,兄子裔字元子,散騎常侍、兗州刺史、高陽鄉侯。殷浩北伐,使裔率眾出彭城,卒於軍。

  蔡豹は徐州にいたころ,內撫將士・外懷諸眾・甚得遠近情であったため、その死を聞き、多くの者に惜しまれ悼まれた。子は無く、兄の子の蔡裔(字は元子)が跡を継ぎ、散騎常侍・兗州刺史・高陽鄉侯となった。殷浩が北伐したとき、使裔して眾を率いて彭城を出たが、陣没した。