虞譚伝

原文はhttp://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7076より。

  虞潭,字思奧,會稽余姚人,吳騎都尉翻之孫也。父忠,仕至宜都太守。吳之亡也,堅壁不降,遂死之。潭清貞有檢操,州辟從事、主簿,舉秀才,大司馬、齊王冏請為祭酒,除祁鄉令,徙醴陵令。值張昌作亂,郡縣多從之,潭獨起兵斬昌別率蠟穆等。襄陽太守華恢上潭領建平太守,以疾固辭。遂周旋征討,以軍功賜爵都亭侯。陳敏反,潭東下討敏弟贊于江州。廣州刺史王矩上潭領廬陵太守。綏撫荒餘,鹹得其所。又與諸軍共平陳恢,仍轉南康太守,進爵東鄉侯。尋被元帝檄,使討江州刺史華軼。潭至廬陵,會軼已平,而湘川賊杜弢猶盛。江州刺史衛展上潭並領安成太守。時甘卓屯宜陽,為杜弢所逼。潭進軍救卓,卓上潭領長沙太守,固辭不就。王敦版潭為湘東太守,複以疾辭。弢平後,元帝召補丞相軍諮祭酒,轉琅邪國中尉。

虞潭は字を思奧といい、会稽余姚の人である。孫呉騎都尉虞翻の孫である。父の虞忠は、孫呉に仕えて宜都太守にまでなった。孫呉が滅亡したとき、虞忠は堅壁して降らず、遂に戦死した。

虞潭は清貞有檢操であり、州に辟され従事、主簿となり、秀才に舉され、大司馬・斉王の司馬冏に請われて祭酒となり、除されて祁鄉令となり、後に醴陵令となった。

張昌の作亂が起きると、郡県の多くが張昌に従ったが、虞潭は獨り起兵し張昌の別率の蠟穆等を斬った。襄陽太守の華恢は上して虞潭を領建平太守としたが、虞譚は疾を理由に固辞した。遂周旋征討で、軍功を理由に賜爵され都亭侯となった。陳敏が反乱を起こすと、虞潭は東下して陳敏の弟の陳贊を江州で討った。広州刺史の王矩は上して虞潭を領廬陵太守とした。綏撫荒餘、鹹得其所であった。又與諸軍共平陳恢,仍轉南康太守,進爵東鄉侯。尋被元帝檄,使討江州刺史華軼。潭至廬陵,會軼已平,而湘川賊杜弢猶盛。江州刺史衛展上して虞潭を並領安成太守とした。当時、甘卓が宜陽に駐屯し、杜弢により圧逼されていた。虞潭は進軍して甘卓を救援し、甘卓は上して虞潭を領長沙太守としたが、虞譚は固辞して不就した。王敦は版して虞潭を湘東太守としたが、虞譚は再び疾を理由に辞退した。杜弢の乱が平定されると、司馬叡東晋の元帝)は虞譚を召して丞相軍諮祭酒に補し、轉琅邪国中尉の措置もした。

  帝為晉王,除屯騎校尉,徙右衛將軍,遷宗正卿,以疾告歸。會王含、沈充等攻逼京都,潭遂於本縣招合宗人,及郡中大姓,共起義軍,眾以萬數,自假明威將軍。乃進赴國難,至上虞。明帝手詔潭為冠軍將軍,領會稽內史。潭即受命,義眾雲集。時有野鷹飛集屋樑,眾鹹懼。潭曰:「起大義,而剛鷙之鳥來集,破賊必矣。」遣長史孔坦領前鋒過浙江,追躡充。潭次於西陵,為坦後繼。會充已擒,罷兵,征拜尚書,尋補右衛將軍,加散騎常侍。

司馬叡が晋王になると、屯騎校尉に除され、右衛将軍に転任となり、後に宗正卿に転任なったが、疾を理由に歸を告げた。王含沈充等の攻撃で建康南京)が脅かされると、虞潭は本県において招合宗人し、郡中の大姓と共に義軍を起こし,軍勢は数万となり、自ら假の明威将軍となった。虞譚の軍は乃進して国難に赴き、上虞に至った。東晋の明帝は手詔して虞潭を冠軍将軍、領会稽内史とした。虞潭は即ちに受命し、義勇軍は雲の如く集った。時に有野鷹飛集屋樑し、人々は鹹懼した。虞潭は言った:「起大義,而剛鷙之鳥來集,破賊必矣。」長史の孔坦を派遣し、領前鋒過浙江し、沈充を追躡した。虞潭の軍は西陵まで達し,為坦後繼した。沈充を追撃して捕虜にすると、罷兵して、征拜尚書し、尋補右衛将軍となり、散騎常侍を加えられた。

  成帝即位,出為吳興太守,秩中二千石,加輔國將軍。以討充功,進爵零縣侯。蘇峻反,加潭督三吳、晉陵、宣城、義興五郡軍事。會王師敗績,大駕逼遷,潭勢弱,不能獨振,乃固守以俟四方之舉。會陶侃等下,潭與郗鑒、王舒協同義舉。侃等假潭節、監揚州浙江西軍事。潭率眾與諸軍並勢,東西猗角。遣督護沈伊距管商于吳縣,為商所敗,潭自貶還節。

東晋の成帝が即位すると、外に出て吳興太守となり、秩中二千石を得て、輔国将軍を加えられた。沈充を討った功績により、爵位を進めて零県侯になった。蘇峻が反乱を起こすと、虞潭に督三吳、晉陵、宣城、義興五郡軍事が加官された。晋軍が敗北し、成帝が逼遷してくると、虞潭は勢弱で、不能獨振であり、乃固守以俟四方之舉するのみであった。陶侃等の援軍がやってくると、虞潭は郗鑒王舒らと共に義舉した。陶侃等は虞潭に仮節を与え、監揚州浙江西軍事を任せた。虞潭は軍勢を率いて諸軍と共に並んで勢いを示し、東西から猗角で攻撃した。督護の沈伊を使わせて管商を吳県で防がせたが、管商に敗北すると、虞潭は自貶して節を返還した。

  尋而峻平,潭以母老,輒去官還余姚。詔轉鎮軍將軍、吳國內史。複徙會稽內史,未發,還複吳郡。以前後功,進爵武昌縣侯,邑一千六百戶。是時軍荒之後,百姓饑饉,死亡塗地,潭乃表出倉米振救之。又修滬瀆壘,以防海抄,百轉褚之。

尋而して蘇峻の乱が平定されると、虞潭は母が老いたという理由で、輒去官還余姚した。詔が出て鎮軍将軍、呉国内史に任命された。後に会稽内史に再任されたが、命令が未発のうちに、再び呉郡に戻された。前後の功績を理由に、爵位を武昌県侯に進め、領邑は一千六百戶に上った。是時軍荒之後,百姓饑饉,死亡塗地,潭乃表出倉米振救之。又修滬瀆壘,以防海抄,百轉褚之。

  咸康中,進衛將軍。潭貌雖和弱,而內堅明,有膽決,雖屢統軍旅,而鮮有傾敗。以毋憂去職。服闕,以侍中、衛將軍征。既至,更拜光祿大人、開府儀同三司,給親兵三百人,侍中如故。年七十九,卒於位。追贈左光祿大夫,開府、侍中如故,諡曰孝烈。子磷嗣,官至右將軍司馬。磷卒,子嘯父嗣。

咸康中、衛将軍まで昇進した。虞潭は貌雖和弱であったが、內堅明で、有膽決であるが、屢統軍旅で、それでも鮮有傾敗であった。毋が憂したという理由で辞職した。服闕し、侍中、衛将軍に再びなった。既至すると、さらに光録大人、開府儀同三司となり、、親兵三百人を給された上で、侍中の職はこれまでどおりとされた。年七十九歳で、在任のまま死去した。追贈され左光録大夫となり、開府、侍中はもとのままとされた。諡号は孝烈。子の虞磷が嗣ぎ、官は右将軍の司馬まで上った。虞磷が卒すると、子の虞嘯父が嗣いだ。

  嘯父少曆顯位,後至侍中,為孝武帝所親愛,嘗侍飲宴,帝從容問曰:「卿在門下,初不聞有所獻替邪?」嘯父家近海,謂帝有所求,對曰:「天時尚溫,{制魚}魚蝦鮓未可致,尋當有所上獻。」帝大笑。因飲大醉,出,拜不能起,帝顧曰:「扶虞侍中。」嘯父曰:「臣位未及扶,醉不及亂,非分之賜,所不敢當。」帝甚絓。隆安初,為吳國內史。征補尚書,未發,而王廞舉兵,版嘯父行吳興太守。嘯父即入吳興應廞。廞敗,有司奏嘯父與廞同謀,罪應斬。詔以祖潭舊勳,聽以疾贖為庶人。四年,複拜尚書。桓玄用事,以為太尉左司馬。尋遷護軍將軍,出為會稽內史。義熙初,去職,卒於家。

虞嘯父は少のときから曆顯位であり、後に侍中まで至った。東晋の孝武帝に親愛されたためである。嘗て侍して飲宴したとき、孝武帝は従容して問うてこう言った:「卿在門下,初不聞有所獻替邪?」虞嘯父の家は近海で、孝武帝に願い出て有所求し、答えてこういった:「天時尚溫,{制魚}魚蝦鮓未可致,尋當有所上獻。」孝武帝は大笑した。因飲大酔し、出して、不能起であった。孝武帝は顧みてこう言った:「扶虞侍中。」虞嘯父はこう言った:「臣位未及扶,醉不及亂,非分之賜,所不敢當。」帝は甚だ絓とした。隆安初に、呉国内史となった。征して尚書に補されたが、命令が未発のままで、王廞が舉兵し、虞嘯父は版されて行呉興太守となった。虞嘯父は即ちに呉興に入って王廞と戦った。王廞は敗れたが、有司が虞嘯父も王廞と同謀であると奏し、罪は斬刑に相当すると奏上した。詔が出て祖の虞潭の舊勳と、疾贖を理由に庶人に落とされた。四年、再び尚書を拝した。桓玄の用事が起きると、太尉の左司馬となった。尋遷して護軍将軍となり、出して会稽内史となった。義熙初に去職し、家で卒した。

  ?斐字思行,潭之兄子也。雖機幹不及於潭,然而素行過之。與譙國桓彝俱為吏部郎,情好甚篤。彝遣溫拜斐,?斐使子穀拜彝。曆吳興太守、金紫光祿大夫。王導嘗謂斐曰:「孔愉有公才而無公望,丁潭有公望而無公才,兼之者,其在卿乎!」官未達而喪,時人惜之。子谷,位至吳國內史。

?斐は字を思行といい、虞潭の兄の子である。機幹であるが虞潭には及ばず、然而素行過之であった。譙國の桓彝と共に俱で吏部郎となり、情好甚篤であった。桓彝は遣溫して拜して?斐に対した,?斐は子の?穀を遣わして桓彝に拝した。曆吳興太守、金紫光祿大夫。王導は嘗て言った、斐曰:「孔愉有公才而無公望,丁潭有公望而無公才,兼之者,其在卿乎!」官未達で喪となり、時人に惜まれた。子の?谷は、位は呉国内史に上った。