馮紞伝

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  馮紞,字少胄,安平人也。祖浮,魏司隸校尉。父員,汲郡太守。紞少博涉經史,識悟機辯。曆仕為魏郡太守,轉步兵校尉,徙越騎。得幸于武帝,稍遷左衛將軍。承顏絓色,寵愛日隆。賈充、荀勖並與之親善。充女之為皇太子妃也,紞有力焉。及妃之將廢,紞、勖幹沒救請,故得不廢。伐吳之役,紞領汝南太守,以郡兵隨王浚入秣陵。遷禦史中丞,轉侍中。

馮紞は、字を少胄といい、安平人である。祖父の馮浮は、魏(曹魏)の司隸校尉であった。父の馮員は汲郡太守であった。馮紞は少博涉經史であり、識悟機辯であった。曆して仕えて魏郡太守となり、轉して步兵校尉となり、徙して越騎になった。武帝司馬炎)に得幸して、稍遷して左衛将軍となった。承顏絓色で、寵愛日隆であった。賈充荀勖と並與之親善であった。賈充の娘(賈南風)が皇太子妃となったことについて、馮紞は有力であった。賈妃が廃立されそうになったとき、馮紞、荀勖が幹沒して救請したため、廃立を免れることができた。伐呉(孫呉)之役では、馮紞は領汝南太守として、郡兵を王浚に随わせて秣陵に入城させた。遷って御史中丞となり、轉して侍中となった。

  帝病篤得愈,紞與勖見朝野之望,屬在齊王攸。攸素薄勖。勖以太子愚劣,恐攸得立,有害於己,乃使紞言於帝曰:「陛下前者疾若不差,太子其廢矣。齊王為百姓所歸,公卿所仰,雖欲高讓,其得免乎!宜遣還籓,以安社稷。」帝納之。及攸薨,朝野悲恨。初,帝友于之情甚篤,既納紞、勖邪說,遂為身後之慮,以固儲位。既聞攸殞,哀慟特深。紞侍立,因言曰:「齊王名過於實,今得自終,此乃大晉之福。陛下何乃過哀!」帝收淚而止。

武帝司馬炎)の病が一時篤くなり、のちに治癒したが、馮紞と荀勖は朝野の声望が斉王の司馬攸に屬在することを知った。司馬攸は素より荀勖を軽んじていた。荀勖は太子(司馬衷)が愚劣であり、司馬攸が得立し、害が己の身に及ぶことを恐れて、馮紞を使って武帝司馬炎)にこう曰わせた:「陛下前者疾若不差,太子其廢矣。齊王為百姓所歸,公卿所仰,雖欲高讓,其得免乎!宜遣還籓,以安社稷。」武帝は之を納め、司馬攸を帰藩させることにした。司馬攸が死去すると、朝野は悲恨した。初め、武帝の友于之情は甚だ篤く、既に馮紞を納しており、荀勖は邪說で、遂為身後之慮,以固儲位であった。既聞攸殞,哀慟特深。紞侍立,因言曰:「齊王名過於實,今得自終,此乃大晉之福。陛下何乃過哀!」帝收淚而止。

  初謀伐吳,紞與賈充、荀勖同共苦諫不可。吳平,紞內懷慚懼,疾張華如讎。及華外鎮,威紱大著,朝論當征為尚書令。紞從容侍帝,論晉魏故事,因諷帝,言華不可授以重任,帝默然而止。事具《華傳》。

  太康七年,紞疾,詔以紞為散騎常侍,賜錢二十萬、床帳一具。尋卒。二子:播、熊。播,大長秋。熊字文羆,中書郎。紞兄恢,自有傳。